死せる魂

原題
Myortvye dushi
作者
ニコライ・ゴーゴリ
成立
1842
ロシア
時代
黄金時代

概要

1842年に刊行された長篇小説である。作者は表題に「叙事詩」と付した。全十一章からなる第一部だけが残っており、これで一つの作品として読まれている。

主人公パーヴェル・チチコフは、地方の町にやってきて、近隣の地主から死んだ農奴を買い集める。当時のロシアでは、農奴は土地とともに売買される財産であり、人数は数年に一度の人口調査で確定された。次の調査までの間に死んだ農奴も、書類の上では生きていることになり、地主はその分の人頭税を払い続けなければならない。チチコフが買うのは、書類の上にしか存在しない人間である。 地主にとっては税負担が減る取引になり、チチコフにとっては、農奴を担保に融資を受けるための資産になる。

作品の骨格は、この男が五人の地主を順に訪ねて回る道中である。それぞれの屋敷で、住人の性格と暮らしぶりが克明に描かれる。筋の展開よりも、この訪問の連なりが本体にあたる。

ゴーゴリの文章は、些細なものへの異常に長い脱線を含む。人物の顔の描写から始まって別の話に流れ、たとえがそれ自体の物語を持ち始める。この逸脱そのものが、この作品の読みどころになっている。

主題はプーシキンから与えられたものだという。ゴーゴリ自身の証言によれば、死んだ農奴を買い集める詐欺の話をプーシキンから聞き、そこから長篇に育てた。同様の詐欺は実際に起きており、当時の新聞にも例がある。

執筆の大半は国外で行われた。1836年から十年以上、ゴーゴリはローマを中心にヨーロッパに滞在し、そこでロシアを書いた。

刊行に際して検閲と衝突した。モスクワの検閲当局は「死せる魂」という題そのものを、魂は不死であるという教義に反すると問題視した。ペテルブルグへ回して認可を得たが、「チチコフの遍歴、あるいは死せる魂」と副題を主にした題に改め、作中の一章を差し替える条件が付いた。

構想では三部作だった。第一部で堕落したロシアを描き、第二部で人物の更生を、第三部で再生を書く計画で、ダンテ神曲の地獄・煉獄・天国に対応させたという説明が広く行われている。第二部は書かれたが、ゴーゴリは満足せず、1845年に原稿を焼いた。書き直したものも、死の直前の1852年に再び焼却している。焼け残った草稿が数章分伝わっており、版によっては併載される。

晩年のゴーゴリは、宗教的な苦悩と厳しい断食で衰弱していた。第二部の焼却から十日ほどで死去した。42歳だった。

文学史における評価と影響

19世紀ロシアの地方社会を、類型化した人物の連なりで示した点が、この作品の最も直接的な達成である。五人の地主はそれぞれ別の悪徳を体現し、並べられることで社会の見取り図になる。批評家ベリンスキーはこの作品を、ロシアの現実を暴いたものとして高く評価し、以後の「自然派」と呼ばれる書き手たちの出発点に据えた。

同時に、この小説は単純な社会批判には収まらない。人物は誇張され、事物は生き物のように動き、比喩が本筋を離れて増殖する。笑いの背後に不気味さが漂う書き方は、写実主義の枠組みでは説明しきれない。20世紀に入ると、この面が再評価された。ウラジーミル・ナボコフはゴーゴリ論で、この作品を社会小説として読むことを否定し、言語そのものの作品と論じている。

ドストエフスキーらの世代への影響は大きい。ゴーゴリの短篇外套について、ロシアの作家はみなあの外套から出てきたという言葉が伝えられているが、誰の発言かは確定していない。

未完のまま残ったこと、作者自身が続きを焼いたことも、この作品の受容の一部になっている。堕落を描く筆は冴えたが、救済を描く筆は動かなかったという読みが、繰り返し語られてきた。

あらすじ

素性の知れない紳士チチコフが、従僕と御者を連れてN市に着く。役人たちを一人ずつ訪問し、如才ない受け答えで町中に好印象を残す。目的は明かさない。

そこから地主めぐりが始まる。マニーロフは愛想がよく、何をするでもなく空想にふけっている男で、死んだ農奴を無償で譲る。次に道に迷って泊まったコロボチカ夫人は、小心で疑い深く、値をつり上げられるのではと繰り返し確認する。ノズドリョフは酒と博打と嘘の男で、取引の代わりに賭けを持ちかけ、断られると殴りかかる。ソバケーヴィチはがっしりした現実家で、死んだ農奴を生きている者のように褒め上げて高く売りつける。最後のプリューシキンは、かつて有能な地主だったが吝嗇が高じて屋敷を荒れるにまかせ、屑を集めて積み上げ、自分の農奴を飢えさせている。ここで最も多くの名前が手に入る。

町に戻ったチチコフは、役所で購入を登記する。手続きは酒宴になり、噂が広まる。四百人以上の農奴を買った金持ちだと評判が立ち、舞踏会でもてはやされる。ところが酔ったノズドリョフが、あの男が買ったのは死んだ農奴だと口走る。コロボチカ夫人も町へ出てきて値の確認をする。町は憶測に沸き、チチコフは知事の娘を誘拐する気だとも、変装したナポレオンだとも噂される。真相は分からないまま、検事は動揺のあまり死ぬ。

最終章で、ようやくチチコフの前歴が語られる。貧しい家に生まれ、父から金を大事にしろと教えられ、役人として出世しかけては汚職の露見で失脚することを繰り返してきた。死んだ農奴を担保に融資を引き出す計画は、その再起の手立てだった。

チチコフは町を出る。走り去る三頭立ての馬車の描写から、ロシアそのものが行く先も知れず疾走しているという一節に移り、第一部は終わる。

作者

登場する文学史