近代以前のロシア文学 — 教会スラヴ語と遅い出発
近代以前のロシア文学は、キリスト教の伝来した10世紀末から1820年頃までを指す。
ロシア文学史には奇妙な形がある。世界文学に決定的な影響を与えた作家がほぼ全員、19世紀の百年に集中しているのである。それ以前は、他国と比べて驚くほど薄い。ここではその理由と、何が助走になったかを見る。
なぜ近代以前の文学が薄かったのか
三つの条件がある。
言語。 書き言葉は教会スラヴ語だった。ブルガリア由来の典礼言語で、話し言葉のロシア語とは別物である。神聖な内容を書くための言語であり、日常や世俗を書く道具として整備されていなかった。西ヨーロッパにおけるラテン語と似た位置にあるが、ラテン語には古代の世俗文学という蓄積があった。教会スラヴ語にはそれがない。
宗教。 ロシアはビザンツから正教を受け入れた。受け取ったのは神学と典礼であって、古代ギリシャの悲劇や叙事詩ではなかった。西欧がルネサンスで古典を取り戻したような経験を、ロシアは経ていない。
印刷と読者。 印刷術の普及が遅く、識字層も薄かった。読者市場が成立していなければ、職業作家は生まれない。
近代以前の主な作品
| 作品 | 成立 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|---|
| 『原初年代記』 | 12世紀初 | 修道士ネストルら | 年代記 |
| イーゴリ軍記 | 12世紀 | 未詳 | 叙事詩 |
| 『ロシア語文法』 | 1755年 | ミハイル・ロモノーソフ | 文法書 |
| 頌詩『神』 | 1784年 | ガヴリーラ・デルジャーヴィン | 頌詩 |
| 『哀れなリーザ』 | 1792年 | ニコライ・カラムジン | 感傷小説 |
| 『寓話集』 | 1809年〜 | イワン・クルイロフ | 寓話 |
イーゴリ軍記は12世紀の作とされる叙事詩で、遠征に失敗した公の物語である。自然描写と嘆きが交錯する独特の文体を持つ。ただし真贋論争がある。 発見された写本は1812年のモスクワ大火で焼失しており、原本が現存しない。18世紀の偽作説が繰り返し提起されてきた。今日では真作とする見方が優勢だが、決着したとは言い難い。そのほかは年代記、聖者伝、大公の訓戒などで、文学作品として書かれたものではなく、記録や教化の文書である。
ピョートル大帝の西欧化が、文化に断層を作った
1700年前後、ピョートル大帝が西欧化政策を進める。都をペテルブルクへ移し、貴族に西欧風の服装と作法を強制した。
文化史としては断層である。上流階級は西欧を模倣し、民衆は従来の生活を続けた。この分裂は、以後のロシア文学が繰り返し扱う主題になる。 西欧派とスラヴ派の対立、トルストイの農民への傾倒、ドストエフスキーの「ロシアの土壌」論は、いずれもここに根を持つ。
18世紀のロシアで書かれたものは、多くがフランス古典主義の模倣だった。まず型を輸入する段階である。
18世紀の仕事は、書き言葉としてのロシア語の整備だった
この世紀の仕事は、作品というより言語の整備である。
ロモノーソフは科学者であり詩人であり、文法書を書いた。「三様式論」——高尚・中庸・卑俗の三段階を設け、教会スラヴ語由来の語彙と日常のロシア語をどう配分するかを規定した。書き言葉としてのロシア語を設計しようとした試みである。
デルジャーヴィンは頌詩の詩人で、皇帝を讃える形式の中に日常の具体を持ち込んだ。形式は古典主義だが、語彙が生きている。
カラムジンは二つの仕事をした。感傷主義の小説『哀れなリーザ』で、貴族と農民の娘の恋という主題を扱い、多くの読者を得た。そして『ロシア国家史』という大著を書き、歴史叙述を読み物として成立させた。プーシキンはこれを愛読している。文章語の面でも、教会スラヴ語的な重い語法を捨て、フランス語の統辞を参考にした軽い散文を作った。反発も大きかったが、この方向が定着する。
クルイロフの寓話は、ラ・フォンテーヌを下敷きにしながら、話し言葉のロシア語をそのまま詩に持ち込んだ。 表現の多くが慣用句として残っている。
近代以前が用意したのは、次の世紀のための言語
| 中身 | |
|---|---|
| 薄さの理由 | 教会スラヴ語、古典的世俗文学の不在、読者市場の未成熟 |
| 断層 | ピョートルの西欧化が上下の文化を分裂させた |
| 言語の設計 | ミハイル・ロモノーソフとニコライ・カラムジンが書き言葉のロシア語を作った |
| 模倣の期間 | 18世紀は型の輸入。独自の作品は次の時代に出る |