社会主義リアリズムとは? ソ連が作家に課した唯一の公式な創作方法

発祥
ロシア
年代
1934–1991
主な国
ロシア

社会主義リアリズムは、ソビエト連邦が国家として作家に課した、唯一の公式な創作方法である。1934年に採択され、以後ソ連で文学が従うべき規範となった。単なる文体や流派ではなく、何をどう書くべきかを国家が定めた点に、他の文芸思潮との根本的な違いがある。

国家が定めた唯一の方法

1934年8月、モスクワで第一回全ソ連作家大会が開かれた。それまで別々に活動していた作家たちが、ソ連作家同盟という一つの組織にまとめられる。同盟に属さなければ作品を発表できず、事実上、国家が作家の資格を握る仕組みになった。

この大会で、社会主義リアリズムが唯一の正しい方法として掲げられる。議長を務めたのはマクシム・ゴーリキーだった。革命前から底辺の労働者を描き、長篇『母』(1906年)で革命運動に加わる母子を書いた作家で、新しい体制の文学の象徴として担ぎ出された。方針の中身を演説で示したのは、党の文化政策を取り仕切った官僚アンドレイ・ジダーノフである。

作品に求められたもの

求められた条件は、いくつかの柱にまとめられる。第一に、共産党の立場に立って書くこと。第二に、現実を「革命的発展においてとらえる」こと。いま目の前にある現実をそのまま写すのではなく、社会主義へ向かって前進していく理想の姿として描け、という意味である。第三に、労働者に分かる平易な形で書くこと。

ここから、決まった人物像が生まれた。困難のなかで社会主義の建設に献身し、迷いや弱さを乗り越えて成長していく「肯定的主人公」である。その典型が、ニコライ・オストロフスキーの長篇『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932〜34年)の主人公パーヴェル・コルチャーギンで、病に倒れながら革命への献身をやめない青年として描かれた。物語は明るい未来へ向かって進み、結末には展望が置かれる。悲観や、答えの出ない曖昧さは歓迎されなかった。

主題の面では、工場やダムの建設を中心に据えた「生産小説」が一つの定番になった。公式化に先立つ1925年、フョードル・グラトコフの『セメント』が、内戦で止まった工場を労働者が立て直す物語でその型を示している。

裏返せば、禁じられたものもはっきりしていた。作品の形そのものを実験するや、内面の混乱を描く前衛的な手法は、労働者から遊離した退廃として退けられる。同じ頃に西欧で花開いたモダニズムとは、正面から対立する方向だった。

プロレタリア文学からの接収

社会主義リアリズムは、何もないところから現れたわけではない。革命後のソ連には、労働者の立場から書くプロレタリア文学のいくつもの団体があり、なかでもロシア・プロレタリア作家協会(ラップ)が強い影響力を持っていた。

1932年、党はこれらの団体をすべて解散させる。そして1934年、作家をひとつの同盟に一本化した。多様だった革命文学の運動が、国家公認の単一の方法へと吸収されたことになる。下からの運動が、上からの統制に置き換えられた。

従わない作家に起きたこと

方法を国家の基準にするということは、そこから外れた作家を排除するということでもあった。この排除を制度として担ったのが作家同盟で、1946年から書記長を務めたアレクサンドル・ファデーエフは、その執行の中心にいた。20世紀ロシア文学の重要な書き手の多くが、この統制の下で沈黙を強いられ、あるいは命を落としている。

エヴゲーニイ・ザミャーチンは、管理社会を描いた反ユートピア小説われらをソ連で発表できず、1931年に国外へ去った。ミハイル・ブルガーコフ巨匠とマルガリータは生前に日の目を見ず、刊行は死後二十年以上たった1966年である。詩人オシップ・マンデリシタームは、スターリンを風刺した詩で逮捕され、1938年に移送中の収容所で死んだ。1946年には、ジダーノフの名で出された党の決定が、詩人アンナ・アフマートワと、風刺小説で知られたミハイル・ゾーシチェンコを名指しで攻撃し、作家同盟から除名している。ボリス・パステルナークドクトル・ジバゴをソ連で出せず、1957年にイタリアで刊行した。翌年ノーベル文学賞に選ばれたが、受賞を辞退せざるをえなかった。短篇の名手イサーク・バーベリは、1940年に銃殺されている。

代表とされた作品

体制が模範として掲げた作品もある。最も高く評価されたのがミハイル・ショーロホフ静かなドンで、ドン川のコサックが革命と内戦に引き裂かれていく大長篇である。1965年にノーベル文学賞を受けた。ただしこの作品が描くコサックの悲劇は、社会主義リアリズムが求めた楽観的な前進とは必ずしも重ならない。公認の模範とされながら、教義には収まりきらない厚みを持っていた。

雪どけと終焉

1953年にスターリンが死ぬと、統制はいくらか緩む。作家イリヤ・エレンブルグの小説『雪どけ』(1954年)の題にちなんで、この時期はのちに「雪どけ」と呼ばれるようになった。1962年には、強制収容所の一日を淡々と描いたアレクサンドル・ソルジェニーツィンイワン・デニーソヴィチの一日が、最高指導者フルシチョフの承認のもとで公刊された。それまで書けなかった主題が、限られた範囲で表に出たできごとだった。

とはいえ規制が消えたわけではない。公認の枠から外れた作品は、地下で手書きやタイプ原稿として回し読みされた()。ソルジェニーツィンも、収容所の実態を告発した収容所群島は国外で出すほかなく、のちに国籍を奪われて追放されている。

社会主義リアリズムは、ソ連の内側にとどまらなかった。第二次大戦後の東欧の社会主義諸国、そして中国でも、文学と芸術が従うべき公式の方針として採り入れられている。

1980年代後半、ゴルバチョフの改革(グラスノスチ)で検閲が緩むと、社会主義リアリズムは規範としての力を失った。1991年のソ連消滅とともに、公式の方法としての歴史を終える。半世紀以上にわたって、一つの国家が文学の書き方そのものを法のように定めた例として、文学史に残っている。

この思潮の作家

ロシア