巨匠とマルガリータ
- 原題
- Master i Margarita
- 作者
- ミハイル・ブルガーコフ
- 成立
- 1966-1967
- 国
- ロシア
- 時代
- ソヴィエト期
概要
1928年から作者の死の1940年まで、十二年にわたって書き継がれた長篇小説である。作者ブルガーコフの死後、二十六年を経た1966年から翌年にかけて、検閲で削除された形で雑誌に発表された。
二つの物語が交互に進む。一つは、悪魔ヴォランドとその一味が1930年代のモスクワに現れ、無神論を掲げる社会に混乱を巻き起こす筋。もう一つは、その中で語られる、ユダヤ総督ポンティウス・ピラトがイエス(作中ではイェシュア)を処刑する古代の筋である。
現代のモスクワの筋は諷刺と幻想に満ち、古代の筋は簡素で写実的である。二つの時代の物語が、テーマと細部を通じて響き合う。
「巨匠」と呼ばれる作家は、ピラトを主題にした小説を書いたが、批判を受けて原稿を焼き、精神を病んで施設に入っている。その恋人マルガリータが、巨匠を取り戻すために悪魔と取引する。
作中には、ソ連の文学界と官僚社会への痛烈な諷刺が込められている。
ブルガーコフは1891年、キエフの生まれ。医師として出発し、後に作家・劇作家に転じた。1920年代には劇作家として成功したが、体制批判とみなされ、1929年以降は作品の発表を封じられる。
困窮の中、ブルガーコフはスターリンに宛てて、働けないなら出国させてほしいと手紙を書いた。スターリンから直接電話があり、モスクワ芸術座での職が与えられた。だが作品の発表は認められないままだった。
この小説の執筆は、そうした状況下で行われた。1930年、絶望したブルガーコフは初期の原稿を焼いている。作中で巨匠が原稿を焼く場面は、この体験に対応する。 その後、記憶をもとに書き直し、死の直前まで改訂を続けた。1940年、腎臓病で死去した。四十八歳だった。口述筆記を担った妻エレーナが、原稿を保存した。
刊行は死後である。1966年から翌年、雑誌に検閲版が載った。削除された箇所は地下出版で流通し、完全な形での刊行はさらに後になる。発表と同時に、ソ連の読者に熱狂的に受け入れられた。
「原稿は燃えない」という作中の言葉は、この作品自身の運命——焼かれ、封じられ、それでも残った——を予言する句として、繰り返し引用される。
文学史における評価と影響
20世紀ロシア文学の最高作の一つとされる。ソ連という抑圧的な体制の下で書かれ、発表されないまま完成し、死後に読者を得たという成立の事情そのものが、この作品の意味の一部になっている。
諷刺の書としての側面が、まず大きい。無神論を国是とする社会に悪魔が現れ、その社会が超自然を否定できないことを暴く。官僚、文学者、住宅を奪い合う俗物たちが次々に懲らしめられる。唯物論を掲げる体制の欺瞞を、幻想の力で暴くという構造をとる。
同時に、この作品は単なる体制批判ではない。ピラトの筋を通じて、良心、臆病、許しという主題が扱われる。臆病こそ最大の悪徳である、というイェシュアの言葉は、作品の核心にある。政治的な理由で正しいと知りながら手を下せなかったピラトの苦しみは、作者自身の時代の知識人の状況と重なる。
形式の面では、幻想と諷刺と歴史と恋愛を一つの構造に収めた点が評価される。二つの時代の物語が並行し、細部で呼応する構成は、後の小説に影響を与えた。マジックリアリズムの系譜で語られることもある。
黒猫ベゲモートをはじめとする悪魔の一味の造形は、作品を離れて広く愛されている。ロシアでは引用句の宝庫として親しまれ、映画・ドラマ・舞台への翻案が繰り返されてきた。
日本でも訳が複数ある。二つの筋の交錯に慣れが要るが、ロシア文学の中でも人気の高い作品にあたる。
あらすじ
夕暮れのモスクワ。文芸誌の編集長ベルリオーズと詩人が公園で、神は存在しないと論じている。そこへ外国人を名乗る紳士ヴォランドが現れ、議論に加わる。ヴォランドはベルリオーズに、あなたは今日、路面電車に轢かれて首を切られると予言する。その通りになる。 ヴォランドは悪魔であり、黒猫ベゲモート、通訳のコロヴィエフら異形の従者を連れている。
一味はモスクワで騒動を起こす。劇場で降霊術の見世物を開き、観客に紙幣と流行の衣装を振る舞うが、それらは後にただの紙切れと消え、人々は下着姿で街をさまよう。人が忽然と消え、住居が乗っ取られ、官僚が翻弄される。唯物論を掲げる社会に、説明のつかない超自然が侵入する。
一方、精神科の施設に「巨匠」と呼ばれる男が収容されている。ポンティウス・ピラトを主題にした小説を書いた作家だった。作品は発表を拒まれ、批評家に罵倒され、絶望のあまり原稿を暖炉で焼き、自ら病院に入った。
その恋人マルガリータは、巨匠を探し続けている。ヴォランドの一味は、悪魔の舞踏会の女主人役をマルガリータに依頼する。巨匠を取り戻せるならと、マルガリータは承諾する。軟膏を塗って魔女となり、裸で夜空を飛び、舞踏会を主宰する。地獄から甦る罪人たちを迎える。
報酬として、ヴォランドはマルガリータの願いを叶える。焼かれたはずの巨匠の原稿が、無傷で戻ってくる。「原稿は燃えない」という言葉とともに。巨匠とマルガリータは再会する。
古代の筋では、ピラトがイェシュアを尋問する。ピラトは、この穏やかな囚人に罪を認めず、助けたいと思う。だが、政治的な立場からやむなく死刑を承認する。イェシュアの処刑後、ピラトは良心の呵責に苦しみ、二千年にわたって月光の道で許しを待ち続ける。
ヴォランドは、巨匠とマルガリータに死による安息を与える。二人は現世を去る。最後に、巨匠はピラトを許し、その筆で古代の物語に決着をつける。ピラトは、待ち望んだイェシュアとともに、光の道を歩んでいく。