静かなドン

原題
Tikhy Don
作者
ミハイル・ショーロホフ
成立
1928-1940
ロシア
時代
ソヴィエト期

概要

1928年から1940年にかけて四部に分けて刊行された長篇小説である。全編でロシア語の分厚い四巻に及ぶ。

舞台は、ロシア南部のドン川流域に住むコサックの村である。コサックは、辺境で半ば自治的に暮らし、軍務を担う共同体で、独特の慣習と誇りを持っていた。物語は、第一次大戦前の平穏な農村生活から始まり、大戦、二月革命、十月革命、そして内戦へと展開する。

主人公はグリゴーリー・メレホフという若いコサックである。隣人の妻アクシーニヤとの激しい恋に落ち、同時に、革命と内戦の渦の中で、赤軍と白軍の間を何度も行き来する。どちらの陣営にも安住できず、翻弄され続ける。

作品は、革命を勝者の側から描く公式の歴史とは異なり、引き裂かれるコサック社会の悲劇を、勝者と敗者の双方に目を配って描く。この点で、ソ連文学の中で異例の広がりを持つ。

ショーロホフは1905年、ドン地方のコサックの村に生まれた。この作品の第一部を発表したのは二十三歳のときである。

若さと、この大作の完成度の落差から、著作権をめぐる疑惑が早くから生じた。白軍側で死んだ別のコサック作家の草稿を利用したのではないか、という説である。この疑惑は数十年にわたって論じられ続けた。1990年代以降、ショーロホフの自筆草稿が発見され、計量言語学的な分析も行われて、現在は本人の作とする見方が有力だが、完全に決着したとは言えない。

執筆と刊行は、スターリン体制の確立と重なる。作品がコサックの反乱を同情的に描き、赤軍の残虐も隠さないことは、当時の文学統制の下では危ういものだった。それでも刊行が許されたのは、全体としては革命の必然性を否定していないと解されたこと、そしてスターリンが個人的にこの作品を評価したことによるとされる。

ショーロホフは体制内の作家として遇され、共産党の要職も務めた。1965年、ノーベル文学賞を受賞する。パステルナークソルジェニーツィンが体制と対立して受賞したのとは対照的に、体制公認の作家としての受賞だった。1984年に死去した。

文学史における評価と影響

ソ連文学を代表する長篇の一つとされる。19世紀ロシアの大河小説、とりわけトルストイ戦争と平和の系譜に置かれる。歴史の大事件を背景に、多数の人物の運命を追い、戦争と平和、公と私を交錯させる構成が共通する。

この作品の特異さは、革命と内戦を、勝者の視点だけで描かなかった点にある。ソ連の公式の文学は、革命を正義の勝利として描くことを求めた。だがこの作品では、主人公は最後まで革命の側に立ちきれず、内戦は同胞が殺し合う悲劇として描かれる。敗者の側の苦しみに、対等な重さが与えられている。 体制内で書かれながら、単純なプロパガンダに収まらないことが、この作品の評価を支える。

コサック社会の描写も、この作品の大きな価値である。方言、慣習、農作業、馬、川。失われていく共同体の生活が、細部にわたって記録される。自然描写の豊かさも高く評価される。

著作権論争は、文学史の一つの事件として残る。若い無名の作家が、いかにしてこれほどの大作を書きえたのか、という問いは、作品の評価とは別に、長く関心を集めてきた。

日本でも訳が読める。長大なため、腰を据えて読む必要がある。

あらすじ

第一次大戦前のドンの村。若いコサック、グリゴーリー・メレホフは、隣家の農夫ステパンの妻アクシーニヤと関係を持つ。周囲の非難にもかかわらず、二人の情熱は抑えられない。父はグリゴーリーを別の娘ナターリヤと結婚させるが、グリゴーリーはアクシーニヤのもとへ走り、二人は駆け落ち同然に村を出る。

第一次大戦が始まる。グリゴーリーは兵として戦場に赴く。戦争の残酷さ、初めて人を殺したときの動揺が描かれる。負傷し、勲章を得る。

革命が起こる。コサック社会は分裂する。革命を支持する者、旧秩序を守ろうとする者、どちらにもつかず村を守ろうとする者。内戦が始まると、対立は血で血を洗う争いになる。同じ村の昨日までの隣人同士が殺し合う。

グリゴーリーは、この争いの中で立場を定めきれない。赤軍に加わり、その残虐さに嫌気がさして離れる。コサックの反乱軍に身を投じ、指揮官として戦う。だが白軍の側にも幻滅し、再び赤軍に戻る。イデオロギーではなく、その場の状況と土地への思いによって、陣営を変え続ける。

私生活も破綻していく。妻ナターリヤは、夫がアクシーニヤのもとへ戻ることに絶望し、堕胎を試みて死ぬ。グリゴーリーとアクシーニヤは、なお互いを求め続ける。

内戦の末期、追われる身となったグリゴーリーは、アクシーニヤを連れて逃げようとする。だが逃走の途上、アクシーニヤは流れ弾に当たって死ぬ。生涯かけて愛した女を、腕の中で失う。

すべてを失ったグリゴーリーは、恩赦も期待できないまま、故郷の村に戻る。生き残った幼い息子を抱き上げる。残されたのはその子だけである。 荒れ果てた家の前に立つところで、長い物語は閉じられる。

作者

登場する文学史