ボリス・パステルナーク
- 原綴
- Борис Пастернак
- 生没
- 1890–1960
- 出身
- モスクワ
- 国
- ロシア
- 時代
- 銀の時代
生涯
1890年、モスクワの芸術家の家に生まれた。父は著名な画家、母はピアニストである。トルストイやリルケが訪れる、教養豊かな環境で育った。
はじめ、音楽家を志した。作曲家スクリャービンに傾倒し、作曲を学ぶ。次いで、哲学に転じ、ドイツのマールブルク大学で学んだ。だが、いずれの道も最終的に断念し、詩へ向かう。
1910年代、詩人として出発した。過去の芸術を捨てて機械と速度の時代の表現を作ろうとした未来派の周辺で活動し、マヤコフスキーと親交を結ぶ。1922年の詩集『わが妹、人生』によって、その名を確立した。
革命後、パステルナークは、マヤコフスキーのように革命に全身を捧げることも、亡命することもなかった。ソ連に留まりながら、体制と微妙な距離を保った。1930年代のの時期、多くの作家が逮捕されるなか、翻訳の仕事に沈潜することで生き延びた。シェイクスピア、ゲーテ、グルジアの詩人たちを訳している。
第二次大戦後、長編小説ドクトル・ジバゴを書き上げた。だが、革命を批判的に描いたこの作品は、ソ連国内では出版を拒まれる。1957年、原稿はイタリアへ持ち出され、国外で刊行された。
1958年、ノーベル文学賞を受賞する。だが、ソ連当局はこれを、反ソ的な挑発とみなした。パステルナークは、激しい非難のキャンペーンにさらされ、作家同盟を除名される。国外追放をちらつかされ、受賞を辞退せざるを得なかった。この事件は、国際的な問題になった。
失意のうちに、1960年、七十歳で死去した。その葬儀には、当局の妨害にもかかわらず、多くの人々が集まった。
作風
パステルナークの詩には、雨、雪、庭、木々といった身近な事物が、細部まで書き込まれる。それらは背景ではない。人物の感情と一続きのものとして扱われ、風景が動くことと心が動くことが同じ文のなかで起きる。
言葉は、凝縮され、時に難解である。イメージが飛躍し、連想が急速に展開する。一つの詩のなかに、多くのものが詰め込まれる。
ドクトル・ジバゴは、その詩人が書いた小説である。医師であり詩人であるユーリー・ジバゴの生涯を、革命と内戦の激動のなかで描く。ジバゴは革命の大義にも、どの政治的な立場にも身を委ねない。守ろうとするのは、自分の生活と愛と、詩を書くことだけである。
この小説は、歴史を、英雄や大義の物語としてではなく、それに巻き込まれる個人の運命として描く。ラーラとの愛、家族との別離、そして詩を書くこと。私的な生の価値が、公的な歴史の暴力に対置される。
小説の最後には、主人公ジバゴが書いたとされる詩が付されている。「ハムレット」「冬の夜」などのこれらの詩は、パステルナーク自身の後期の詩であり、小説の主題を、詩の形で結晶させている。散文と詩が、一つの作品のなかで結びついている。
作品
『わが妹、人生』(1922年)
初期の代表的な詩集である。パステルナークの名を確立した。
ドクトル・ジバゴ(1957年、国外刊行)
代表作である。革命と内戦のなかの一人の医師・詩人の生涯を描く。1965年にデヴィッド・リーン監督で映画化され、世界的に知られた。
自伝的な散文『安全通行証』『人びとと状況』もある。
翻訳の仕事も大きい。シェイクスピアの悲劇、ゲーテのファウストのロシア語訳は、高く評価されている。
日本語では『ドクトル・ジバゴ』と、詩の抄訳が読める。
文学史における立ち位置と影響
パステルナークは、20世紀ロシア文学を代表する詩人・小説家である。
銀の時代の詩人として出発し、その伝統を、ソヴィエト時代を通じて守り続けた。アフマートワと並んで、破壊されたの文化を後世へ橋渡しした存在にあたる。
ドクトル・ジバゴは、革命を個人の側から描いた作品として、大きな意味を持つ。革命を、大義や必然としてではなく、個人の生を押し潰す暴力として捉えた。歴史のなかで、個人の内面の自由をいかに守るか、という問いが、その中心にある。この視点は、公式のソヴィエト文学とは、根本的に異なっていた。
ノーベル賞をめぐる事件は、冷戦下の文学と政治の関係を象徴する出来事になった。文学作品が、国家間の政治的な争いの焦点になった。作家が、自国の政府によって受賞を辞退させられるという事態は、表現の自由をめぐる問題として、国際的な注目を集めた。この構図は、後のソルジェニーツィンの亡命へとつながっていく。
詩人としての評価も、極めて高い。その感覚的で凝縮された詩は、ロシア詩の重要な達成とされる。小説家として世界的に知られる一方、ロシアでは、まず詩人として記憶されている。
日本での受容は、映画『ドクトル・ジバゴ』の成功もあって、広く進んだ。詩人としての側面の紹介も、続いている。