近現代の中国文学 — 魯迅と白話の革命

近現代の中国文学は、清が滅びた1912年から今日までを指す。書き言葉を取り替えるところから始まる。

二千年使われた文言を、数年で白話に置き換えた

それまで正式な文章は文言(ぶんげん)——古代に基礎が定まった書き言葉——で書かれていた。話し言葉とは大きく異なり、習得に長い教育を要する。

1910年代の新文化運動は、これを捨てて白話(話し言葉に基づく文体)で書くことを主張した。胡適(こてき)が提唱し、雑誌『新青年』が舞台になる。1919年のと結びついて広がった。主張の核は識字と近代化である。少数しか使えない文体では国民が読み書きできない、という論理である。

日本の言文一致と同じ問題だが、切断の度合いが違う。二千年使われた文体を、数年で公的に置き換えた。 現代の中国語話者が古典を読むには専門の訓練が要る、という状況はここから生じている。

近現代中国の主な作品

作品発表作者種類
狂人日記1918年魯迅短篇小説
阿Q正伝1921〜1922年魯迅中篇小説
1933年巴金長篇小説
駱駝祥子1936〜1937年老舎長篇小説
囲城1947年銭鍾書長篇小説
紅い高粱1986年莫言小説
活きる1993年余華長篇小説

魯迅は、救いを示さず自国の精神を解剖した

魯迅は、この転換の中心にいる。医学を学ぶため日本に留学したが、中国人が処刑される場面の幻灯を見て、身体を治すより精神を変えるべきだと考え、文学に転じたという有名な記述を残している。

狂人日記は白話小説の最初期の作品とされる。被害妄想の男の日記という形式で、儒教の道徳を「人を食う」ものとして告発する。阿Q正伝の主人公は、負けても「精神的勝利法」によって自分は勝ったと解釈し直す。辛亥革命の時期を舞台に、変わらない民衆の姿を書いた。この造形は中国人の自己批判の型として長く引かれてきた。

文章は徹底して否定的である。希望を語る場面でも、それが幻かもしれないという留保が付く。

1930〜40年代、都市と家族を書く作家が並んだ

老舎駱駝祥子は、北京の人力車夫が真面目に働きながら、その努力の一つ一つが裏切られて堕ちていく話である。北京の口語を生かした文体で書かれた。

巴金は、大家族の制度が若い世代を押し潰す様を書き、当時の青年に強く支持された。沈従文は湘西(しょうせい)の農村を舞台に、政治の主題を避けて生活と自然を書いた。そのため後に長く沈黙を強いられ、作品は再評価まで時間がかかった。

張愛玲は戦時下の上海と香港を舞台に、恋愛と結婚を、経済と打算の側から書いた。 大きな歴史ではなく、そこで生きる個人の計算を描く。後に香港、アメリカへ移った。銭鍾書囲城は、留学から帰った知識人を風刺的に描く。結婚は囲まれた城で、外の者は入りたがり中の者は出たがる、という比喩が題名になっている。

1942年以降、政治が文学の役割を定めた

1942年、延安での講話で、文芸は工農兵に奉仕すべきものと規定された。 1949年の建国後、これが文学政策の基本になる。

社会主義リアリズムに近い方針が取られ、ソヴィエトのロシアと似た構造が生じた。作家は組織に属し、路線から外れれば批判の対象になる。(1966〜76年)の期間、文学活動はほぼ停止した。 老舎は1966年、批判を受けた翌日に湖で死んでいる(自死とされる)。

1970年代末以降、文学が再び動き出した

改革開放とともに、文学が再び動き出す。「傷痕文学」が文革の被害を書くところから始まり、次いで「尋根文学(ルーツ探しの文学)」が地方の伝承や民俗に題材を求めた。

莫言紅い高粱は、山東の農村を舞台に、抗日戦争期の一族の物語を、荒々しい語りと感覚的な描写で書いた。2012年にノーベル文学賞。受賞に際しては、体制内の作家協会副主席という立場が国際的な議論を呼んだ。余華活きるは、一人の男が内戦から文革までを生き、家族を一人ずつ失っていく話である。文体は極度に平明で、感情の説明をほとんどしない。

ほかにも多くの作家が、それぞれ異なる方法で書いている。高行健はフランスに亡命し、2000年に中国語作家として初のノーベル文学賞を受けた。中国国内では受賞が公式にほとんど報じられなかった。

近現代が抱えたのは、言語の切断と政治との距離

中身
言語の切断二千年の書き言葉を数年で置き換えた。古典との距離が生じた
否定の文体魯迅は救いを提示せず、自国の精神を解剖した
政治との距離1942年以降、文学の役割が政策として規定された
国外の中国語文学亡命・移住した作家を含めて見る必要がある

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