中国近現代

中国文学 近現代

通史では、この時代を「言語の切断と、政治」と要約した。ここではその中身を開く。

文言から白話へ

近現代中国文学は、書き言葉を取り替えるところから始まる。

それまで正式な文章は文言——古代に基礎が定まった書記言語——で書かれていた。話し言葉とは大きく異なり、習得に長い教育を要する。

一九一〇年代の新文化運動は、これを捨てて白話(話し言葉に基づく文体)で書くことを主張した。胡適が提唱し、雑誌『新青年』が舞台になった。

主張の核は、識字と近代化である。 少数しか使えない文体では国民が読み書きできない、という論理である。

日本の言文一致と同じ問題だが、切断の度合いが違う。二千年使われた文体を、数年で公的に置き換えた。 現代の中国語話者が古典を読むには専門の訓練が要る、という状況はここから生じている。

魯迅

魯迅は、この転換の中心にいる。

医学を学ぶため日本に留学したが、中国人が処刑される場面の幻灯を見て、身体を治すより精神を変えるべきだと考え、文学に転じたという有名な記述を残している。

狂人日記(狂人日記)は白話小説の最初期の作品とされる。被害妄想の男の日記という形式で、儒教の道徳を「人を食う」ものとして告発する。

阿Q正伝(阿Q正伝)の主人公は、負けても「精神的勝利法」によって自分は勝ったと解釈し直す。辛亥革命の時期を舞台に、変わらない民衆の姿を書いた。 この造形は中国人の自己批判の型として長く引かれてきた。

彼の文章は徹底して否定的である。 希望を語る場面でも、それが幻かもしれないという留保が付く。

三〇〜四〇年代

老舎駱駝祥子(駱駝祥子)は、北京の人力車夫が真面目に働きながら、その努力の一つ一つが裏切られて堕ちていく話である。北京の口語を生かした文体で書かれた。

巴金(家)は、大家族制度が若い世代を押し潰す様を書き、当時の青年に強く支持された。

沈従文は湘西の農村を舞台に、政治の主題を避けて、生活と自然を書いた。 そのため後に長く沈黙を強いられ、作品は再評価まで時間がかかった。

張愛玲(張愛玲)は戦時下の上海と香港を舞台に、恋愛と結婚を、経済と打算の側から書いた。 大きな歴史ではなく、そこで生きる個人の計算を描く。後に香港、アメリカへ移った。

銭鍾書囲城(囲城)は、留学から帰った知識人を風刺的に描く。「結婚は囲まれた城で、外の者は入りたがり、中の者は出たがる」という比喩が題名になっている。

政治と文学

一九四二年、延安での講話で、文芸は工農兵に奉仕すべきものと規定された。 一九四九年の建国後、これが文学政策の基本になる。

社会主義リアリズムに近い方針が取られ、ソヴィエトのロシアと似た構造が生じた。作家は組織に属し、路線から外れれば批判の対象になる。

文化大革命(一九六六〜七六年)の期間、文学活動はほぼ停止した。 老舎は一九六六年、批判を受けた翌日に湖で死んでいる(自死とされる)。

一九七〇年代末以降

改革開放とともに、文学が再び動き出す。

「傷痕文学」が、文革の被害を書くところから始まる。次いで「尋根文学(ルーツ探しの文学)」が、地方の伝承や民俗に題材を求めた。

莫言紅い高粱(紅高粱)は、山東の農村を舞台に、抗日戦争期の一族の物語を、荒々しい語りと感覚的な描写で書いた。二〇一二年にノーベル文学賞。受賞に際しては、体制内の作家協会副主席という立場が国際的な議論を呼んだ。

余華活きる(活きる)は、一人の男が内戦から文革までを生き、家族を一人ずつ失っていく話である。文体は極度に平明で、感情の説明をほとんどしない。

蘇童王安憶残雪らが、それぞれ異なる方法で書いている。

高行健はフランスに亡命し、二〇〇〇年に中国語作家として初のノーベル文学賞を受けた。中国国内では受賞が公式にほとんど報じられなかった。

この時代をどう読むか

中身
言語の切断二千年の書記言語を数年で置き換えた。古典との距離が生じた
否定の文体魯迅は救いを提示せず、自国の精神を解剖した
政治との距離一九四二年以降、文学の役割が政策として規定された
国外の中国語文学亡命・移住した作家を含めて見る必要がある

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