巴金
- 原綴
- 巴金
- 生没
- 1904–2005
- 出身
- 成都(中国南西部・四川省)
- 本名
- 李堯棠
- 国
- 中国
- 時代
- 近現代
生涯
1904年、四川省成都の大地主の家に生まれた。本名は李堯棠という。数十人が一つの屋敷に暮らす旧来の大家族のなかで育った。この家庭の体験が、代表作の直接の素材になる。
少年期にの思想に触れた。とくにに強く惹かれ、ロシアの思想家クロポトキンらの著作を読んでいる。筆名の「巴金」は、同じくロシアのアナーキストであるバクーニンと、このクロポトキンの音訳から一字ずつ取ったとする説が広く知られる(本人は後にこれを一部否定している)。
1927年、フランスへ渡った。パリでの孤独な生活のなかで最初の小説『滅亡』を書く。この作品が認められ、帰国後に作家として立った。
1931年から『家』を新聞に連載し、1933年に刊行した。若い読者に熱狂的に受け入れられ、家を出て革命に向かう者が続いたと伝えられる。
日中戦争期から戦後にかけて、旺盛に作品を発表した。1949年の中華人民共和国成立後は、文学の組織で要職を務めている。
1966年からので、古い価値観の代表として糾弾された。長期にわたり、公衆の面前での批判と、肉体労働による思想改造を強いられ、妻を病で失っている。妻は十分な治療を受けられないまま死んだ。
文革後、名誉が回復された。晩年は上海で暮らし、『随想録』を書いた。文革における自分自身の沈黙と迎合を省みる内容で、大きな反響を呼ぶ。2005年、百歳を超えて死去した。
作風
『家』の舞台になる高家は、成都の大地主の一族である。家長の祖父が絶対の権威を持ち、その下で若者たちの結婚も進路も決められる。個人の意思は認められない。この制度によって、若い女性たちが次々に死んでいく。許嫁を親に決められて自死する者、旧習によって医者にかかれず死ぬ者。
三人の兄弟が対比される。長兄は制度に従い、愛する人を諦めて家の決めた相手と結婚し、苦しむ。次兄は反抗を試みるが徹底できない。三男の覚慧が、家を捨てて外へ出る。この三通りの生き方によって、旧い家に直面した世代の選択肢が示される。
文体は率直で、感情をそのまま書く。技巧を凝らすより、訴えることを優先する。若い読者に強く響いたのは、この直接性による。同時に、感傷的で図式的だという批判も、この特徴から出ている。
アナーキズムの影響が根底にある。あらゆる権威と抑圧への反抗という姿勢が、家という最も身近な制度への批判として現れた。革命そのものより、個人を縛るものからの解放が主題になっている。
晩年の『随想録』では、書き方が変わる。他人を告発するのではなく、自分がなぜ沈黙し、迎合したのかを問う。文革を生き延びた知識人による自己批判として、独自の位置を占める。
作品
『滅亡』(1929年)
パリで書かれた最初の長篇である。
「激流三部作」は『家』(1933年)、『春』(1938年)、『秋』(1940年)からなる。『家』が最もよく読まれている。
「愛情三部作」は『霧』『雨』『電』からなる。
『寒い夜』(1947年)
日中戦争末期の重慶を舞台に、貧しい知識人の一家が病と貧困のなかで壊れていく話である。若い頃の熱情が消え、抑えた筆致で書かれており、後期の代表作とされる。
『随想録』(1978〜86年)
文革を省みた散文集である。全五巻。
日本語では『家』と『寒い夜』が読める。
文学史における立ち位置と影響
巴金は、中国近代文学を代表する作家の一人である。魯迅、茅盾、老舎らと並ぶ位置に置かれる。
『家』は、五四運動以後の若い世代に最も広く読まれた小説の一つになった。旧来の家族制度への批判を、若い世代の側から書いたことで、時代の気分を代弁する作品として受け取られた。実際に家を出る決断を促した、という証言が多く残る。
文学的な評価と、社会的な影響力にはずれがある。技巧の面では魯迅や茅盾に及ばないという評価がある一方、若い読者を動かした力においては際立っていた。
『随想録』は、後期の巴金の位置を決定づけた。加害と被害が入り混じった文革を、自分の責任の側から書いた例として、中国の知識人の戦後の総括のなかで独自の意味を持つ。他者を糾弾するのではなく自らを省みるという姿勢は、当時としては勇気を要するものだった。
長命だったこともあり、20世紀の中国文学のほぼ全体を、その生涯が覆っている。清末の大家族に生まれ、五四運動を経て、革命と文革を生き延び、改革開放後まで書き続けた。
日本での受容も厚い。『家』は中国近代小説の代表として繰り返し訳され、研究も蓄積されている。