余華

原綴
余華
生没
1960–
出身
浙江省杭州
中国
時代
近現代

生涯

1960年、浙江省杭州に生まれ、海塩で育った。両親はともに医師である。病院の宿舎で育ち、死体安置所の向かいに住んでいた時期もあった。死と身体への近さが、初期作品の背景にある。

文化大革命の時期に少年期を過ごした。高校卒業後、五年間、歯科医として働いた。だが、他人の口のなかを覗く仕事に耐えられず、文化館(地方の文化施設)の職を得て、そちらへ移る。この転職が、作家への道を開いた。

1980年代半ばから小説を発表した。初期は、前衛的で暴力的な短篇を書き、「先鋒派」(アヴァンギャルド)と呼ばれる潮流の代表的な書き手になる。

1990年代に入り、作風を大きく変えた。実験的な手法を離れ、平明な語りによる長編へ移る。1993年の活きるがその転機になった。

以後、『許三観売血記』『兄弟』などを発表し、中国国内でベストセラー作家になった。近年は、社会評論的な随筆も書いている。

現在も執筆を続けている。

作風

余華の作風は、前後で大きく変わる。

初期は、暴力と死を、感情を排して描いた。人が殺され、切り刻まれ、腐敗する過程が、冷たい筆致で書かれる。文化大革命の暴力を経験した世代の人間への不信がその根底にある。この時期の作品は、読者を挑発し、不快にさせることを辞さない。

1990年代以降、方向が変わった。実験を離れ、平明で語りやすい文章に移る。主人公は、社会の底辺で生きる普通の人々になる。

活きるがその代表である。地主の息子だった福貴は、賭博で家産を失う。それが、かえって彼を地主として処刑される運命から救う。だが以後、内戦、大躍進、文化大革命という歴史の激動のなかで、彼は家族を一人ずつ失っていく。息子、娘、妻、婿、孫。最後に残るのは、老いた福貴と、一頭の老いた牛だけである。これほどの不幸を重ねながら、物語は嘆きに沈まない。福貴自身が、穏やかに、時に笑いを交えて自分の生涯を語る。この語りの調子が、作品の核にある。

苦難を、告発としてではなく、生きることそのものとして書く。どれほど失っても、なお生きていく。その事実を、余華は淡々と提示する。題名の「活きる(活着)」は、生き延びること、ただ生きてあることを意味する。

暴力の主題は消えていない。だが後期では、それが歴史のなかの庶民の受難として描かれる。個人の残酷さから、時代の残酷さへ、対象が移った。

語りには、諧謔としたたかさがある。悲惨な事態のなかにも笑いがあり、登場人物は簡単には絶望しない。この生活者の強靭さが、余華の描く人間像を特徴づけている。

作品

活きる(『活着』)(1993年)が代表作である。張芸謀によって映画化され、カンヌ国際映画祭で評価された。

『許三観売血記』(1995年)

生活の危機のたびに自分の血を売って家族を養う男の生涯を描く。

『兄弟』(2005〜06年)

文化大革命期から改革開放後までを、義兄弟の対照的な生き方を通じて描いた大長編である。前半の悲惨と後半の狂騒の落差が、中国社会の激変を映す。

『第七天』(2013年)

死者の視点から現代中国の諸相を描く。

初期の短篇集も訳されている。

日本語では『活きる』と『許三観売血記』が読みやすい。

文学史における立ち位置と影響

余華は、現代中国文学を代表する作家の一人である。莫言と同世代であり、文化大革命後に登場した世代を代表する。

「先鋒派」(アヴァンギャルド)の代表的な書き手として出発した。1980年代、西洋の現代文学の影響を受けて実験的な小説を書いた一群のなかで、最も先鋭な一人だった。カフカと川端康成から影響を受けたと自ら語っている。

その後の転換は、中国文学の一つの動きを象徴する。前衛的な実験から、広い読者に届く平明な語りへ。この移行は、余華個人の変化であると同時に、1990年代の中国文学全体の傾向とも重なる。

活きるは、現代中国で最も広く読まれた小説の一つになった。歴史の激動を、一人の庶民の生涯を通じて描くという方法は、多くの読者に受け入れられた。同時に、政治的な事件を直接には批判せず、庶民の受難として描く姿勢について、議論もある。

映画との関わりも大きい。張芸謀による『活きる』の映画化は、中国国内では長く公開が制限された。作品の受容そのものが、表現をめぐる状況を映している。

日本での受容も厚い。『活きる』をはじめ主要作が訳され、現代中国文学の代表として読まれている。

作品

登場する文学史