魯迅

詰襟の上着を着た魯迅の肖像写真。下部に本人の書き入れがある。
1930年、上海で撮影
原綴
魯迅
生没
1881–1936
出身
浙江省紹興
本名
周樹人
中国
時代
近現代

生涯

1881年、浙江省紹興の士大夫の家に生まれた。本名は周樹人。祖父が科挙の不正事件で投獄され、父も病に倒れて、家は急速に傾く。少年の魯迅は質屋と薬屋のあいだを往復して薬を買い、父の死を看取った。伝統的な漢方医への不信は、この経験に由来する。

1902年、国費留学生として日本へ渡る。弘文学院を経て仙台医学専門学校で医学を学んだ。だが1906年、授業の合間に見せられた幻灯で、日露戦争の際にスパイとして処刑される中国人と、それを無感動に取り囲む同胞の姿を見る。身体を治すより精神を治すべきだと考え、医学をやめて文学に転じた——この経緯を本人が『吶喊』の自序に書いている。

帰国後は教職に就きながら沈黙の時期を過ごし、1918年、37歳のとき狂人日記を発表して「魯迅」の筆名を用いた。以後、北京大学などで教えながら小説と評論を書く。

1926年以降は政治的な弾圧を避けて厦門、広州、上海へ移った。晩年は小説をほとんど書かず、雑文と呼ばれる短い評論、そして外国文学の翻訳に力を注いでいる。1936年、上海で結核により55歳で死去した。

作風

魯迅は口語(白話)で小説を書いた。それまでの中国の文学は、話し言葉とかけ離れた文言(古典中国語)で書かれるのが常識だった。狂人日記は、中国で最初の本格的な白話小説とされる。

批判の向け方に特徴がある。政治制度や個別の悪人ではなく、人々の精神の構造そのものを対象にした。狂人日記では、被害妄想に陥った男が古い書物を読み、行間に「食人」の二字を見出す。儒教道徳が人を食う仕組みとして働いていると告発する形をとった。

阿Q正伝では、殴られても「息子に殴られたようなものだ」と考えて自尊心を保つ男を描いた。負けても解釈を変えて勝ちにしてしまう心の働きである。この「精神的勝利法」は、中国社会の自己批判の語彙として定着した。

同時に、告発一辺倒ではない。『故郷』では、少年時代の遊び相手だった農民の子と20年ぶりに再会し、相手が自分を「旦那様」と呼ぶ場面を書く。批判ではなく、隔たりの発見として置かれている。

文体は簡潔で、感傷を排する。晩年の雑文はさらに短く鋭くなり、論争の武器として使われた。散文詩集『野草』では、暗く象徴的な文章を試みている。

作品

狂人日記(1918年)

中国で最初の本格的な白話小説とされる。数十ページで読める。

阿Q正伝(1921〜22年)

代表作である。日雇い労働者の阿Qが、辛亥革命の渦中で何も理解しないまま処刑されるまでを描く。中篇にあたる。

『故郷』(1921年)

帰郷した知識人と、かつての友である農民との隔たりを書いた短篇である。日本の教科書にも採録されてきた。

『吶喊』(1923年)と『彷徨』(1926年)は短篇集で、上記の作品を収める。『野草』(1927年)は散文詩集である。

翻訳の仕事も膨大である。ロシア・東欧の文学や、日本の厨川白村などを訳し、新しい文学の枠組みを中国に導入した。

背景となる清末から民国初期の社会状況の説明があると理解が深まるため、解説の充実した版を選ぶとよい。

文学史における立ち位置と影響

魯迅は中国近現代文学の出発点にあたる。1917年に始まった文学革命(白話運動)の中心にあり、文言による文学から口語文学への転換を、理論ではなく実作で示した。

日本の近代における言文一致運動と構図が似ている。書き言葉と話し言葉の乖離をどう埋めるかという問題は、東アジアの近代文学に共通する課題だった。ただし日本では二葉亭四迷が明治20年代にこれを試みており、魯迅より30年ほど早い。

政治的な位置づけには注意が要る。没後、中華人民共和国で国民的作家として顕彰されたが、その解釈は時代によって大きく変動してきた。革命の先駆者として読む立場と、あらゆる権威に懐疑的だった人物として読む立場がある。作品そのものと、後年与えられた政治的な意味づけは、区別して読む必要がある。

日本との関係が深い作家でもある。仙台医専の恩師・藤野厳九郎を書いた『藤野先生』は、日本でもよく知られている。日本語で書かれた資料も多く残り、竹内好をはじめとする日本の研究者が、魯迅論を通じて自国の近代を問い直した。

作品

登場する文学史