高行健
- 原綴
- 高行健
- 生没
- 1940–
- 出身
- 江西省贛州
- 国
- 中国
- 時代
- 近現代
生涯
1940年、江西省贛州に生まれた。日中戦争のさなかである。母は演劇を好み、その影響で幼くから芝居に親しんだ。
北京の外国語学院でフランス語を学んだ。卒業後、翻訳の仕事に就く。だが文化大革命が始まると、知識人として糾弾された。地方へ下放され、農村で労働に従事する。この時期、書き溜めた原稿を、摘発を恐れて自ら焼いたと語っている。
文革後、北京人民芸術劇院の劇作家になった。1980年代前半、西洋の現代演劇を紹介し、実験的な戯曲を発表する。1982年の『バス停』は、ベケットのゴドーを待ちながらを思わせる不条理劇で、当局から精神汚染として批判された。1985年の『野人』も物議をかもす。作品は上演禁止の対象になった。
1987年、中国を離れ、ドイツを経てフランスへ渡った。1989年の天安門事件に抗議し、共産党を離党する。事件を扱った戯曲『逃亡』を書いたことで、中国では作品が全面的に発禁になった。以後、帰国していない。1997年、フランス国籍を取得した。
2000年、ノーベル文学賞を受賞した。中国語で書く作家として初めての受賞である。だが受賞時の国籍はフランスだった。中国政府はこの受賞を政治的なものとして退け、国内での報道を抑えた。
近年は、絵画にも力を注いでいる。水墨画の個展を各地で開いている。
作風
高行健が追求したのは、個人の内面と、その孤独である。
小説『霊山』は、長江上流の山地を旅する「私」の物語である。だが、通常の物語ではない。語り手は「私」「あなた」「彼」という三つの人称に分裂し、それぞれが独立して語る。「あなた」は「私」の投影であり、「彼」はさらにその外にいる。一人の内面が、複数の声に分かれて語られる。筋らしい筋はなく、風景、伝説、民謡、記憶、思索が、断片的に連ねられていく。
自己を複数の人称に分けるこの方法が、高行健の中心的な技法である。演劇でも、俳優が役を演じながら、同時にその役を外から語る、という手法をとる。中国の伝統的な演劇と、西洋の現代演劇の両方から、この方法を引き出している。
政治からの自由を、繰り返し主張した。文学は、いかなる主義にも、集団にも奉仕すべきではない。個人が、個人として語ることにこそ、文学の意味がある。この立場を「冷たい文学」と呼んだ。熱狂や煽動から距離を置き、冷静に個を見つめる文学、という意味である。
不条理劇の方法を、中国語で展開した。ベケットやイヨネスコから学びながら、それを中国の状況と、中国語の表現に接続した。
絵画との関わりも深い。水墨による抽象的な作品を制作しており、その視覚的な感覚が、文章の風景描写にも通じている。
作品
『バス停』(1983年初演)
不条理劇の代表作である。バスを待つ人々が、何年も待ち続けるが、バスは来ない。
『野人』(1985年)
伝説と現代を交錯させた大がかりな劇である。
『霊山』(1990年)
代表作である。中国を離れる前後に書かれた長編小説で、フランスで刊行された。人称の分裂によって、一人の内面の遍歴を描く。
『ある男の聖書』(1999年)
文化大革命の経験を扱った長編である。
『逃亡』(1990年)
天安門事件を背景にした戯曲で、これによって中国での発禁が決定的になった。
日本語では『霊山』が読める。分量が大きく、筋を追う読み方ができないため、その世界に浸る形で読むことになる。
文学史における立ち位置と影響
高行健の2000年のノーベル文学賞は、中国語文学にとって画期になった。中国語で書く作家が、初めてこの賞を受けたのである。ただし、その受賞は複雑な文脈を伴った。作家はフランス国籍であり、中国では作品が発禁になっていた。中国政府は受賞を認めず、国内ではほとんど報じられなかった。中国語文学の栄誉でありながら、中国本土では祝われないという、ねじれた事態が生じた。
亡命作家としての位置が、その全体を規定している。中国を離れ、中国では読めない作家となった。この点で、その受容は、中国国内と海外・華人社会とで大きく異なる。
演劇史では、中国に西洋の現代演劇を導入した先駆者とされる。1980年代、不条理劇や叙事的演劇の手法を中国語の舞台に持ち込んだ。この試みは、その後の中国の実験演劇に影響した。
「冷たい文学」の主張は、政治と文学の関係をめぐる、一つの明確な立場を示している。文学が政治に奉仕することを当然としてきた20世紀中国の文学史のなかで、それに正面から異を唱えた。同世代で体制内にとどまった莫言との対比は、この問題を考える際にしばしば持ち出される。
日本での受容は、ノーベル賞受賞を機に進んだ。『霊山』の翻訳のほか、戯曲も紹介されている。