張愛玲

原綴
張愛玲
生没
1920–1995
出身
上海
中国
時代
近現代

生涯

1920年、上海の名門に生まれた。祖父は清朝の高官、祖母は李鴻章の娘である。だが、この一族はすでに没落しつつあった。父はアヘンに溺れる旧時代の人間で、母は西洋に憧れて家を出た新しい女性だった。この対照的な両親のもとで、張愛玲は不幸な少女期を送る。父に監禁された経験もある。

聖マリア女学校で学び、香港大学へ進んだ。だが1941年、日本軍が香港を占領し、学業は中断される。上海へ戻った。

日本占領下の上海で、二十代前半に作家として世に出た。1943年から翌年にかけて、『傾城の恋』『金鎖記』などの代表作を次々に発表し、一躍人気作家になる。占領下という特殊な状況のなかでの活躍だった。

この時期、汪兆銘政権の宣伝に関わった胡蘭成と結婚した。この結婚は、後に張愛玲の評価に影を落とすことになる。相手の女性関係もあって、数年で破局した。

1952年、香港へ移り、次いで1955年にアメリカへ渡った。以後、生涯をアメリカで過ごす。英語で書くことを試みたが、英語圏では成功しなかった。アメリカ人の劇作家と再婚したが、夫は病に倒れ、生活は困窮した。

晩年は、ロサンゼルスで人との交わりを絶ち、隠者のように暮らした。1995年、アパートの一室で孤独に死去した。七十四歳だった。死後、数日を経て発見されたと伝えられる。

作風

張愛玲が描いたのは、男女のあいだの計算と駆け引きである。

恋愛を、ロマンスとしてではなく、生存をかけた取引として書く。とくに、経済的に男に依存せざるを得ない女性が、結婚や関係のなかで何を計算し、何を得て、何を失うかが、冷徹に描かれる。

『傾城の恋』はその典型である。離婚して実家で肩身の狭い思いをしている女、白流蘇が、香港で富裕な独身男、范柳原と出会う。二人は互いの本心を見せず、駆け引きを続ける。結婚には至らないまま、宙吊りの関係が続く。そこへ日本軍の香港攻撃が起きる。戦争によって都市が崩れるなかで、二人はようやく結ばれる。一つの都市が陥落することで、一組の男女が成立する——題名の「傾城」は、この皮肉を含んでいる。

細部の描写が緻密である。衣服、家具、食べ物、部屋の様子、光の加減。都市の物質的な生活が、精密に書き込まれる。この感覚的な豊かさが、張愛玲の文体の魅力になっている。

冷たい視線が全体を貫く。登場人物に同情も断罪も加えず、その打算と虚栄を、突き放して観察する。人間への幻想を持たない目が、そこにある。同時に、その冷たさの底には、時代に翻弄される人々への抑えた哀れみも流れている。

伝統と近代が交錯する世界を描いた。没落する旧家、新しい都市の生活、西洋と中国が混じり合う租界の文化。その狭間で生きる人々が、繰り返し主題になる。

作品

『傾城の恋』(1943年)

代表作である。香港を舞台にした中篇にあたる。

『金鎖記』(1943年)

金銭と抑圧によって歪んでいく女性を描く。魯迅研究者の夏志清が、中国近代文学で最も優れた中篇と評したことで知られる。

『第一炉香』(1943年)など、初期の中短篇を集めた『伝奇』(1944年)が、その名を確立した。

『色・戒』

抗日運動の女スパイと、暗殺の標的である男との関係を描く。アン・リーによって映画化された。

『半生縁』(1948年、後に改稿)

すれ違いによって引き裂かれる男女を描く長編である。

散文集『流言』もある。

日本語では『傾城の恋』『色・戒』などが読める。

文学史における立ち位置と影響

張愛玲は、中国語圏で最も読み継がれる作家の一人である。とくに、その洗練された文体と、都市の生活への鋭い観察によって、繰り返し新しい読者を得てきた。

中国本土の主流の文学史では、長く無視されてきた。政治性を欠くこと、占領下で活躍したこと、汪兆銘政権に関わった人物と結婚したことが、その理由である。再評価が進むのは、本土では1980年代以降になる。

一方、香港・台湾・海外の華人社会では、早くから熱心に読まれた。「張迷」(張愛玲ファン)と呼ばれる愛読者の層が形成され、その影響は後続の作家に及んでいる。台湾の作家たちには、張愛玲の系譜を継ぐと目される者が多く、「張派」と呼ばれる。

夏志清の『中国現代小説史』が、その評価を決定づけた。政治的な基準で作家を序列づけてきた従来の見方に対し、芸術性を基準に張愛玲を高く位置づけたことは、中国近代文学史の見直しの契機になった。

映画との親和性も高い。『色・戒』『傾城の恋』『半生縁』などが映画化され、その物語が広く知られている。

日本での受容は、近年になって進んだ。都市の女性の心理を描いた作家として、新たな読者を得ている。

登場する文学史