ローマ人盛衰原因論
- 原題
- Considérations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence
- 作者
- モンテスキュー
- 成立
- 1734
- 国
- フランス
- 時代
- 18世紀
概要
1734年に匿名で刊行された歴史論である。分量は短く、日本語訳で二百ページ前後になる。全二十三章。
扱う範囲は、ローマ建国から東ローマ帝国の滅亡(1453年)までである。
方法に特徴がある。歴史上の出来事を、個人の資質や偶然によって説明しない。制度、法、風習、地理といった、長く続く条件から説明する。
モンテスキューはこう書いている。世界を支配しているのは運命ではない。あらゆる君主国に作用する一般的な原因があって、それが国を興し、保ち、あるいは滅ぼす。一つの戦いに敗れて国が滅びるように見えるとき、その国はすでに、その戦いに敗れるだけの原因を持っていた。
モンテスキューは1689年、ボルドー近郊の貴族の家に生まれた。ボルドー高等法院の法官を務めたが、1726年にその職を売却して著述に専念した。当時、官職は売買の対象で、これ自体は異例ではない。
1728年から1731年にかけてヨーロッパを回った。オーストリア、ハンガリー、イタリア、ドイツ、オランダを経て、イギリスに一年半滞在している。この旅で各国の制度を実地に見たことが、以後の方法を決めた。
帰国後の1734年、この本が刊行された。匿名で、オランダから出されている。ローマ史を論じることには政治的な含みがあった。共和政の徳を称え、専制の腐敗を論じることは、当時のフランスの王政への批判と読まれうる。
1748年、モンテスキューは二十年をかけた法の精神を刊行する。この本は、一つの国家について試みた分析を、あらゆる国家に広げたものにあたる。
なお、この本と同じ年に、モンテスキューは別の草稿からイギリスの統治を論じた部分を切り離している。それが後に法の精神の第十一編になった。
文学史における評価と影響
歴史の説明の仕方を変えた本として扱われる。
それ以前の歴史叙述は、多くの場合、個人の資質と偶然で事件を説明した。ある王が賢明だったから国が栄え、ある戦いに敗れたから滅びた。あるいは神の摂理によって説明された。
モンテスキューはこれを退ける。個人も偶然も働くが、それが大きな結果を生むのは、そこにそれを可能にする条件が揃っていたからである。カエサルがいなくても、別の誰かが同じことをしただろう。共和政を壊す条件はすでに揃っていた。
この視点は、社会科学の出発点の一つに数えられる。歴史を法則的に説明しようとする試みとして、後の歴史学と社会学に受け継がれた。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も、この本を読んだうえで書かれている。
限界も指摘されてきた。モンテスキューの言う「一般的な原因」は、しばしば道徳的な色合いを帯びる。質素と規律が国を強くし、贅沢と腐敗が滅ぼす、という図式は、古代以来の道徳論の枠を出ていない。資料の扱いも、19世紀以降の実証的な歴史学の水準からは遠い。
「分裂が自由のしるしである」という逆説は、この本で最も独創的な部分とされる。対立を弱点ではなく条件と見る考え方は、法の精神の権力分立論の基礎になる。
内容
興隆の原因が前半で論じられる。
初期のローマは貧しく、質素だった。市民が同時に兵士であり、戦って得たものは自分たちのものになる。したがって戦う動機と国家の利害が一致する。
軍の規律も要因に挙げられる。ローマ人は装備を自分で運び、陣を築き、訓練を欠かさなかった。
もう一つ、モンテスキューが重視するのが内部の対立である。ローマには貴族と平民の争いが絶えなかった。通常これは弱点とみなされる。だがモンテスキューは逆に見る。対立があるからこそ権力が一点に集まらず、制度が調整され続け、市民が政治に関わり続けた。自由な国家における分裂は、しばしばその自由のしるしである、と書かれる。
敗北からの学習も挙げられる。ローマは負けるたびに相手の武器や戦法を取り入れた。
衰亡の原因が後半にあたる。
征服が大きくなりすぎたことが第一に置かれる。領土が広がると、市民は遠方で長期の戦役に就くことになる。すると兵士は市民でなくなり、軍隊は国家ではなく将軍個人に忠誠を誓うようになる。共和政が終わるのはこの時点である。
富の流入も風習を変えた。属州からの収奪、贅沢、腐敗。市民権が広く与えられたことで、共同体としてのまとまりも薄れた。
帝政の成立後は、近衛兵が皇帝を擁立し、また殺すようになる。軍が皇帝を作るようになれば、帝位は内乱の対象になり続ける。
その後、帝国の分裂、キリスト教の広がり、蛮族の移動が扱われる。最後に東ローマ帝国の長い衰退が論じられる。モンテスキューは、制度の硬直と、神学上の論争への傾斜を挙げている。