明月記
- 作者
- 藤原定家
- 成立
- 1180-1235
- 国
- 日本
- 時代
- 中世
概要
歌人・藤原定家が、50年以上にわたって書き続けた漢文の日記である。
藤原定家は、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者として名高い、中世を代表する歌人である。その定家が、十代の若い頃から七十代の晩年まで、半世紀を超えて書き継いだのが、この『明月記』にあたる。
内容は多岐にわたる。宮廷や貴族社会の出来事、和歌の会や歌集の編纂の記録、自身や家族の病、天候、そして日々の憂いや憤り。 中世の貴族の生活と、和歌の世界の内実を伝える、第一級の史料である。
とりわけ名高いのが、若き日の一節にある「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事に非ず」という言葉である。折しも世は源平の争乱のただ中にあった。紅の旗を掲げての戦や、蛮族の征伐——そうした天下の争いは、自分には関わりのないことだ、と定家は言い切る。 芸術に生きる者としての強烈な自負がここにある。
また定家は天体の異変も克明に記した。藤原定家が記録した「客星(超新星)」の記事は、現代の天文学でも重要な資料として参照されている。
文学史における評価と影響
中世の貴族社会と和歌の世界を伝える、第一級の史料であり、藤原定家という人物を知るうえで欠かせない日記にあたる。
この日記の価値は、まずその記録の膨大さと詳細さにある。半世紀を超える期間の宮廷の儀式、政治の動き、貴族の日常、和歌の営みが、克明に書き留められている。中世前期の歴史を研究するうえで、これに勝る史料は少ない。
「紅旗征戎わが事に非ず」の一句は、この日記を有名にした。源平の争乱という時代の激動を前に、定家は芸術の世界に身を置くことを宣言する。現実の政争や戦乱から距離を取り、和歌という美の道に生きる——その芸術家の矜持は、後世、繰り返し引用されてきた。
天文史料としての価値も特筆される。定家が記録した超新星や彗星の観測記録は、東洋の天文記録として貴重で、現代の天文学者が過去の天体現象を研究する際に用いられている。
歌人としての定家は技巧の極致を追った。だがこの日記には、病や不遇に苦しみ、世を憤る、生身の人間の姿が記されている。理想の歌の世界と、現実の苦渋との落差を伝える点でも、興味深い記録にあたる。
内容
『明月記』は藤原定家が、十代の若い頃から晩年まで、五十年以上にわたって書き続けた、漢文の日記である。
定家は、歌人・藤原俊成の子として生まれ、みずからも中世を代表する歌人となった。『新古今和歌集』の撰者の一人として、また『小倉百人一首』を選んだ人物として名高い。 その定家が、日々のことを克明に記したのが、この日記である。
日記の内容は、実に多彩である。宮廷の儀式や行事、貴族社会の政争、和歌の会や勅撰集の編纂をめぐる記録。自身や家族の病、都の天候、火事や地震といった災害。そして昇進をめぐる憂いや、世の中への憤り。中世の貴族が、何を思い、どう暮らしていたかが、生々しく伝わってくる。
日記の書き出しに近い、若き日の有名な一節がある。「世上乱逆追討、耳に満つといへども、これを注せず。紅旗征戎わが事に非ず」。
当時、世は源平の争乱のただ中にあった。反乱や追討の知らせが、耳に満ちている。だが定家は、それらを日記に書き記さない。紅の旗を掲げての戦、蛮族を征伐する武力——そうした天下の争いは、自分には関わりのないことだ、と言い切る。芸術に生きる者としての揺るぎない自負である。
一方で、日記には、定家の現実の苦労も刻まれている。なかなか望む地位に就けない不遇、病に苦しむ日々、家の存続をめぐる心労。 理想の歌を追い求める歌人の内面と、宮廷を生きる貴族の現実とが、同居している。
そして定家は、夜空の異変も記録した。ある夜、それまでなかった明るい星(客星=超新星)が現れたことを、定家は書き留めた。 この記録は、現代の天文学者が、過去の超新星爆発を特定する手がかりとして用いる、貴重な資料となっている。
宮廷の政争、和歌の営み、病と憂い、そして天体の異変。半世紀にわたる一人の歌人の記録は、中世という時代そのものを映し出す、かけがえのない鏡となっている。