作者
夏目漱石
成立
1910
日本
時代
近代

概要

1910年3月から6月まで朝日新聞に連載された長篇小説である。三四郎それからに続く前期三部作の最後にあたる。

主人公の野中宗助は役所勤めの下級官吏で、妻の御米と二人、崖下の日当たりの悪い借家に住んでいる。子はなく、訪ねてくる者もほとんどない。二人は仲がよく、静かに暮らしているが、その静けさは過去に理由がある。御米はもと宗助の友人安井の妻で、二人はそれを奪う形で結ばれた。大学は中退し、親類とは疎遠になり、京都から広島、福岡を経て東京に戻った。

作品の大部分は、日常の描写に費やされる。歯が悪くなる、弟の学費をどうするか、大家に借りた屛風を売る、正月に餅を焼く。過去の出来事は最後まで正面から語られず、第十四章で回想としてはじめて明かされる。 それまでは、二人の会話の端に断片が現れるだけである。

三部作の最後として、前二作と続けて書かれた。題名の由来については、執筆が難航していたとき、門下の小宮豊隆と森田草平が漱石の家に集まり、ニーチェの本を適当に開いて出てきた語から決めたという逸話が伝えられる。作品の内容から付けた題ではないという点で、しばしば言及される。

連載中、漱石は胃潰瘍で苦しんでいた。連載を終えた翌月に入院し、8月には転地療養に出た伊豆の修善寺で大量に吐血し、危篤状態に陥る。修善寺の大患と呼ばれる。この後の作品では、死をくぐった経験が繰り返し扱われるようになり、この作品は大患以前の最後の長篇にあたる。

参禅の記述には、漱石自身の体験が反映されている。1894年から翌年にかけて、鎌倉の円覚寺帰源院に参禅した。当時二十七歳で、神経衰弱の状態にあった。公案を与えられたが透過できないまま下山している。

文学史における評価と影響

前二作と並べると、この三作が扱ってきたものが見える。三四郎は選択の前、それからは選択の瞬間、この作品は選択の後にあたる。代助が家を捨てて三千代を選んだところで小説は終わったが、その先に何があるかを、この作品が引き受けている。答えは、罪の意識を抱えたまま、日当たりの悪い家で静かに暮らし続けることである。劇的な罰も償いも訪れず、生活が続くだけという形で決着がつかない。

宗助が救いを求めて禅に行き、何も得られずに帰ってくるという展開も、この作品の性質を示している。宗教が答えを与える話にも、宗教が無力だと断じる話にもなっていない。門の前に立って開かないという比喩が、そのまま題になった。

日本の近代小説が扱ってきた姦通の主題という点では、社会的な破局を描かずに済ませた例にあたる。西欧の同種の小説、たとえばフローベールボヴァリー夫人トルストイアンナ・カレーニナでは、女は死をもって物語を終える。ここでは誰も死なず、罰も下らず、ただ世間の外に置かれた生活が続く。処罰を制度の側からではなく、当人たちの内側の静けさとして書いた点が異なっている。

日常の細部を積み重ねる書き方は、後の志賀直哉らの小説にも通じる。事件の起きない生活を、そのまま長篇として持たせる技術が確立された作品として読まれてきた。

漱石の長篇の中では地味な部類に入るが、評価は高い。何も起こらないことに耐える小説として、繰り返し論じられてきた。

あらすじ

日曜日、宗助は縁側で寝転がり、御米と他愛のない話をしている。役所に勤め、給料は多くない。家は崖の下にあり、上に住む坂井という資産家の家がある。

弟の小六は、亡父の残した財産を叔父に預けたまま学費が続かなくなり、宗助を頼る。宗助は叔父の家に赴くが、財産はすでに使われて残っていない。話は進まず、決断もできないまま日が過ぎる。結局、小六は宗助の家に引き取られる。

御米は三度子を失っている。一度目は流産、二度目は早産、三度目は出産の直前に胎内で死んだ。易者に、他人に対して済まないことをした報いで子は育たないと言われ、そのまま口にできずに抱えている。

宗助は坂井の家に出入りするようになる。ある日、坂井から、蒙古に行っている弟が知人を連れて帰ってくるという話を聞く。その知人の名が安井だった。宗助は動揺し、会わずにすむよう坂井の家を避ける。

宗助は休暇を取り、鎌倉の禅寺に十日ほど参禅する。「父母未生以前の本来の面目」という公案を与えられるが、何も掴めない。答えを出そうと考えれば考えるほど遠のく。門の前に立ち、開けてもらおうとするが、門は開かない。かといって引き返すこともできない、という自覚だけを得て山を下りる。

家に帰ると、安井はすでに去っていた。冬が終わり、春が来る。御米が、ようやくよい季節になったと言うと、宗助は、しかしまたじきに冬になると答える。

作者

登場する文学史