サランボー
- 原題
- Salammbô
- 作者
- ギュスターヴ・フローベール
- 成立
- 1862
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
概要
紀元前3世紀のカルタゴを舞台にした長篇小説である。十五章、五百ページ前後。フロベールの作品では唯一、現代を扱っていない。
第一次ポエニ戦争が終わり、カルタゴは雇っていた傭兵への支払いを渋る。怒った傭兵たちが反乱を起こし、三年にわたる戦争になる。歴史上「傭兵戦争」と呼ばれる出来事で、記録はポリュビオスの『歴史』に数ページ残るだけである。その空白にフロベールは小説を建てた。
物語の中心に置かれるのがサランボー。将軍ハミルカルの娘で、月の女神タニトに仕える巫女である。傭兵の首領マトーがこの娘に激しく恋し、神殿から聖なるヴェールを盗み出す。
読んで最初に来るのは、絢爛と残酷が同じ密度で書かれていることである。宝石、香料、衣装の詳細な描写と、生贄、拷問、飢餓の共食い、群衆によるリンチが同じ調子で並ぶ。どちらにも作者の判断が付かない。 これがフロベールの方法である。
前作ボヴァリー夫人の裁判と成功の後、フロベールは正反対の主題へ向かった。執筆に五年をかけ、古代の歴史家をはじめとする文献を読み尽くし、カルタゴの宗教、軍制、風俗、動植物を調べ上げ、1858年には実際にチュニジアへ赴いている。
刊行後、考証の誤りを指摘する学者と論争になった。 フロベールは詳細な反論を書いている。だが本人が不満だったのは、この作品が考古学の小説として読まれたことのほうだった。自分が書きたかったのは考証ではない、と繰り返し述べている。
文学史における評価と影響
フロベールの作品のなかで最も評価の分かれる作品にあたる。
位置づけを難しくしているのは、ボヴァリー夫人との落差である。同時代の地方の平凡な生活を冷徹に描いた直後に、古代の異国の絢爛と残酷。正反対の二作が同じ手から出ている。
だが共通するものもある。文体へのこだわりである。この作品でも一語一句を削り、書き直し、声に出して読んでリズムを確かめた。「ぴったりの一語」を求める姿勢は変わっていない。
考証の徹底は19世紀の歴史小説の水準を大きく超えていた。同時に、この傾倒は批判も招いた。細部が詳細すぎて人物が生きていないという指摘である。フロベールが人物の内面をほとんど書かず、身に着けたものと動作だけを記述することが、その印象を強めている。
美と残虐の並置は、この作品の最も際立った特徴にあたる。残酷な場面が、宝石の描写と同じ丁寧さで書かれる。この感触は19世紀後半の耽美的な傾向——後のデカダンス——を先取りしており、実際に象徴派やデカダンの作家たちに愛読された。
歴史小説という形式への寄与も大きい。スコット以来の歴史小説は、多く教訓や感傷を含んでいた。フロベールはそれを排し、遠い時代をそのものとして描こうとした。現代の価値観を投影せず、異質なものを異質なまま提示する。 読者が感情移入できる人物を一人も置かないという選択は、そのために取られている。
あらすじ
第一次ポエニ戦争が終わった直後のカルタゴ。将軍ハミルカルの庭園で、傭兵たちが宴を開いている。だがカルタゴは約束した報酬を払わない。宴は次第に荒れ、傭兵たちは庭園を荒らし、聖なる魚を殺す。
その騒ぎの中にサランボーが現れる。ハミルカルの娘で、月の女神タニトに仕える処女である。その姿を見たリビア人の傭兵マトーは、たちまち心を奪われる。
支払いをめぐる交渉は決裂し、傭兵たちは反乱を起こす。 リビア人、ガリア人、ギリシア人、バレアレス人——さまざまな民族からなる軍がカルタゴに攻め寄せる。
マトーは脱走兵スペンディウスの手引きでカルタゴに忍び込み、神殿から聖なるヴェール「ザインフ」を盗み出す。 女神タニトのヴェールで、カルタゴを守る護符とされていた。マトーはそれを身にまとってサランボーの部屋に現れ、愛を告げる。サランボーは恐れて拒む。マトーはヴェールとともに逃れる。
ヴェールを失ったカルタゴは動揺する。神官はこれを災厄のしるしと見る。
やがてハミルカルが帰還し、傭兵軍を次第に追い詰めていく。だが戦況は一進一退で、カルタゴ自身も危機に陥る。追い詰められたカルタゴは、神バアル・モロクの怒りを鎮めるため、子どもたちを生贄として火中に投じる。ハミルカルは自分の幼い息子を救うため、身代わりの子を差し出す。この息子が後のハンニバルである。
神官の示唆を受けたサランボーは、ヴェールを取り戻すために単身で敵陣へ赴く。マトーの天幕に入り、そこで身を任せる。そしてヴェールを取り戻して帰る。この体験はサランボーの内に消えない痕跡を残す。
戦争は続き、傭兵軍は追い詰められる。「斧の谷」と呼ばれる峡谷に閉じ込められた傭兵たちは、飢餓のうちに共食いにまで至る。ついに傭兵軍は壊滅する。
マトーは捕らえられ、カルタゴの市中を裸で引き回される。群衆は通りの両側からマトーを打ち、切り裂く。血まみれになりながらマトーは歩き続け、最後にサランボーの前にたどり着いて倒れ、息絶える。
その瞬間、それを見ていたサランボーもまた崩れ落ちて死ぬ。 最後の一行は、女神のヴェールに触れたがゆえにサランボーは死んだ、と記す。