フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
- 原綴
- Hugo von Hofmannsthal
- 生没
- 1874–1929
- 出身
- ウィーン
- 国
- ドイツ
- 時代
- 20世紀前半
生涯
1874年、ウィーンの富裕な銀行家の家に生まれた。祖父の代にユダヤ教から改宗している。
十六歳でロリスという筆名で詩を発表し、たちまち注目された。技巧が完成しており、少年が書いたとは信じられないと言われている。ウィーンのカフェで、この少年に会うために文学者たちが集まった。
大学では法律と、次いでロマンス語文献学を学び、学位を得た。学問の職を目指したが断念し、著述に専念する。
1902年、架空の書簡「チャンドス卿の手紙」を発表した。言葉への信頼を失った青年貴族が筆を折ることを告げる内容で、ホーフマンスタール自身も以後、抒情詩をほとんど書いていない。
1906年から作曲家リヒャルト・シュトラウスとの共同作業が始まる。以後、二十年以上にわたってオペラの台本を書いた。
第一次大戦中はオーストリアの文化政策に関わり、講演と執筆によって帝国の文化的な統一を訴えた。帝国の崩壊はこの人物にとって決定的な打撃になっている。
1920年、ザルツブルク音楽祭の創設に参加した。
1929年、長男が自死した。その二日後、葬儀の準備中に脳出血で倒れ、55歳で死去した。
作風
ホーフマンスタールの出発点は、言葉の完全な支配だった。十代の詩は音楽的で、比喩が精密で、既存の詩の伝統を完璧に扱う。
その支配が失われる過程を書いたのが「チャンドス卿の手紙」である。架空の青年貴族が、ベーコンに宛てて、もう書けないと告げる。抽象的な語がばらばらに崩れ、口のなかで腐った茸のようになる。一方で、じょうろや、水に浮かぶ甲虫といった些細なものが、耐えがたいほどの意味を帯びて迫ってくる。言葉と事物のあいだの結びつきが壊れた状態が、精密な言葉で書かれている。
この文章は、言語への信頼が崩れるという20世紀の主題を、その世紀の初めに提示したものとして扱われる。
以後、ホーフマンスタールは劇へ移った。書く対象は、個人の内面より、人と人との結びつきである。孤独から社会へ、というのが自身の言い方だった。
台本作者としての仕事も特徴的である。音楽に組み込まれる言葉を書くという制約のなかで、詩の技術を使った。喜劇では、変化と時間の経過が主題になる。『薔薇の騎士』では、年上の女性が若い恋人を年若い娘へ譲る。誰も悪くないまま何かが終わるという状況が、その中心にある。
後期には中世の宗教劇やカルデロンの翻案へ向かった。共同体を成り立たせる型を、演劇のなかに求めたためである。
作品
初期の詩と詩劇には『昨日』(1891年)、『チチアンの死』(1892年)、『愚者と死』(1893年)がある。
「チャンドス卿の手紙」(1902年)は散文の書簡形式である。分量は小さいが、この作家について論じる際に必ず参照される。
『エレクトラ』(1903年)
ソフォクレスの翻案で、後にシュトラウスによってオペラ化された。
『薔薇の騎士』(1911年)
シュトラウスとの共作で、最も広く知られたオペラの一つである。18世紀のウィーンを舞台にした喜劇にあたる。
『ナクソス島のアリアドネ』(1912年)、『影のない女』(1919年)も同じ共作による。
『イェーダーマン』(1911年)
中世の道徳劇に基づく作品で、ザルツブルク音楽祭で毎年上演される演目になっている。
『難しい男』(1921年)
喜劇である。戦争から戻った男が、言葉によって誤解が生じることを恐れて何も言えなくなる。ホーフマンスタール自身が最も重視した戯曲にあたる。
日本語では「チャンドス卿の手紙」が読める。分量は数十頁である。
文学史における立ち位置と影響
ホーフマンスタールは世紀末ウィーンを代表する作家の一人であり、シュニッツラーらとともに「若きウィーン」の中心にいた。
「チャンドス卿の手紙」の位置がとくに大きい。言語が世界を捉えられないという認識を文学の形で示したものとして、20世紀の言語不信の出発点に置かれる。同時代のウィーンではヴィトゲンシュタインが同じ問題を哲学の側から扱っており、両者が並べて論じられることが多い。以後のカフカ、ベケット、ツェランにつながる系譜の起点として扱われる。
オペラの台本作者としての位置も特筆される。文学的な価値を持つ台本を書いた例として、この分野で最高の評価を受けてきた。シュトラウスとの往復書簡は、二人の芸術観の違いを記録した資料として読まれている。
ザルツブルク音楽祭の創設も業績に数えられる。帝国が崩壊した後のオーストリアに、文化的な同一性を与える装置として構想されたものである。
日本では大正期に紹介され、その耽美的な初期詩が受容された。「チャンドス卿の手紙」の紹介は戦後になってからで、こちらは思想の文脈で読まれている。