ファウスト

原題
Faust
作者
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
成立
1808/1832
ドイツ
時代
古典主義・ロマン主義

概要

第一部が1808年、第二部が作者の死の翌年1832年に刊行された韻文の劇である。二十代で書き始め、82歳で死ぬ直前に完成させた。着想から完成まで約六十年におよぶ。

第一部は、老学者ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約し、若返り、町娘グレートヒェンを愛して破滅させるまでを扱う。第二部は一転して、皇帝の宮廷、古代ギリシア、干拓事業へと舞台を移し、寓意に満ちた場面が続く。二つの部は、性格がまったく異なる。

契約の条件が、この作品の中心にある。ファウストは、自分がある瞬間に向かって「留まれ、お前は美しい」と言ったなら、そのとき魂を渡すと申し出る。満足したら負けという賭けであり、追求をやめないかぎり悪魔は勝てない。

上演を前提としながら、第二部は舞台にかけることが難しい。全篇の上演は二十時間を超えることもあり、通常は第一部だけが上演される。

素材は16世紀ドイツの伝説である。実在したとみられる魔術師ヨハン・ファウストの話が、1587年の民衆本にまとめられ、悪魔と契約して知識と快楽を得た男が地獄に落ちる教訓譚として広まった。イングランドではマーロウフォースタス博士で劇にしている。人形芝居としてもドイツ各地で演じられ、ゲーテは少年時代にそれを見たと回想している。

執筆は1770年代に始まった。この初期の草稿は長く行方不明で、1887年に写本が発見され、『初稿ファウスト(Urfaust)』と呼ばれる。グレートヒェンの筋はこの段階でほぼ書かれており、悪魔との賭けや天上の序曲はまだない。

1790年に断片が発表され、シラーとの交流の中で執筆が再開された。第一部の完成は1806年、刊行は1808年である。第二部は1825年ごろから本格的に取り組み、1831年に完成させ、封をして自分の死後に公表するよう指示した。翌1832年3月に死去し、同年中に刊行された。

伝説では、ファウストは地獄に落ちる。ゲーテは救済に変えた。この変更が、作品の性格を決めている。

文学史における評価と影響

ドイツ文学の中心に置かれる作品であり、ドイツ語圏では引用句の供給源としてシェイクスピアに相当する位置を占める。

「ファウスト的」という形容は、作品を離れて使われる。限界を認めず、代償を払ってでも拡大を続ける態度を指す言い方で、20世紀には近代文明そのものの性格を説明する語として用いられた。第二部の干拓事業は、自然を改造して人を住まわせる大規模な開発であり、その過程で古い住民が排除される。この場面は、近代の開発の寓意として繰り返し引かれてきた。

グレートヒェンの筋は、当時の社会問題を扱っている。18世紀のドイツでは嬰児殺しが死刑にあたり、実際の裁判が社会的な議論を呼んでいた。ゲーテは若い頃、フランクフルトでその種の裁判に接している。誘惑した男は罰を受けず、女だけが処刑されるという構図が、そのまま作品に置かれている。

形式の面では、規則にとらわれない構成が特徴である。場面は自由に飛び、韻律は場面ごとに変わり、悲劇と笑劇と寓意劇が混在する。フランス古典主義の三一致の規則とは正反対の原理で書かれており、この自由はシェイクスピアの受容から来ている。

日本では森鷗外の訳が1913年に出て以来、繰り返し訳されてきた。第一部だけを読むか全篇を通すかで、印象がかなり異なる作品である。

あらすじ

第一部。天上の序曲で、神とメフィストフェレスが賭けをする。メフィストフェレスは、あの学者を堕落させてみせると言い、神は、人は努力するかぎり迷うものだと答えて許可する。

書斎のファウストは、哲学も法学も医学も神学も学び尽くしたが何も分からないと嘆き、魔術に頼り、毒杯をあおろうとする。復活祭の鐘の音に止められる。散歩の帰りについてきた黒い犬が、書斎でメフィストフェレスの姿を現す。契約が結ばれる。この世では悪魔がファウストに仕え、あの世では立場が逆になる。ただしファウストが満足の瞬間を口にしたときに限る。

魔女の厨で若返ったファウストは、町でグレートヒェンに出会う。宝石を贈り、隣家の女を仲立ちにして近づき、結ばれる。母は眠り薬を過剰に飲まされて死ぬ。妹の名誉のために決闘を挑んだ兄ヴァレンティンは、メフィストフェレスの助力を得たファウストに刺され、死ぬ間際に妹を罵る。ファウストが魔女たちの祭りに連れ出されている間に、グレートヒェンは生まれた子を溺死させて捕らえられる。牢に助けに行くファウストを、グレートヒェンは拒み、神に身を委ねる。メフィストフェレスが「裁かれた」と言うと、天からの声が「救われた」と答える。

第二部。全五幕。ファウストは眠りから覚め、罪の記憶を癒される。皇帝の宮廷で、財政難を救うため、地中に眠る財宝を担保にした紙幣の発行を提案し、宮廷は一時の繁栄に沸く。祝宴の余興でギリシアの美女ヘレネの幻を呼び出し、ファウストは幻に手を伸ばして気を失う。

助手だったヴァーグナーが、フラスコの中に人造人間ホムンクルスを作り出している。ホムンクルスの導きで一行は古代ギリシアの世界へ入る。ファウストはヘレネを得て子オイフォリオンをもうけるが、この子は空へ飛ぼうとして墜落死し、ヘレネも消える。古代の美は手に入れても留められない。

老いたファウストは、皇帝から海辺の土地を与えられ、干拓事業に取り組む。堤防を築き、沼地を人の住める土地に変える大事業である。その途上で、土地に残る老夫婦フィレモンとバウキスの小屋が邪魔になり、立ち退きを命じたところ、メフィストフェレスの部下が二人を焼き殺す。ファウストは盲目になる。それでも工事の音を聞きながら、自由な土地に自由な民が立つ光景を思い描き、そのような瞬間に向かって「留まれ、お前は美しい」と言う。倒れる。実際に響いていたのは、悪魔の部下たちがファウストの墓を掘る音だった。

メフィストフェレスは魂を取ろうとするが、天使が花を撒いて妨げ、魂は運び去られる。最終場では、聖母と、悔悛した女となったグレートヒェンがファウストを迎える。永遠に女性的なるものが我らを引いて昇らせる、という一句で全篇が閉じられる。

作者

登場する文学史