疾風怒濤とは? 理性に反発したドイツの若者たちの文学運動
- 発祥
- ドイツ
- 年代
- 1770–1785
- 主な国
- ドイツ
疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)は、1770年代のドイツで、理性と規則を重んじる時代の空気に反発した、若い作家たちの運動である。感情のほとばしり、手つかずの自然、規則に縛られない天才を掲げた。名は、当時の一戯曲の題(「嵐と衝動」の意)から取られている。中心にいたのが、二十代のゲーテとシラーである。
背景 — 啓蒙の理性への反発
18世紀のヨーロッパは、理性を頼りにすべてを問い直す啓蒙思想の時代だった。ドイツでも、劇作家レッシングらが、理性と寛容を説く文学を築いていた。だが世紀の後半、その冷たい理知に飽き足りない若者たちが現れる。人間を本当に動かすのは、整った理屈ではなく、抑えきれない情熱や、直感や、生の衝動ではないか、と。
当時のドイツには、もう一つの事情があった。国が三百以上の領邦に分かれ、宮廷では文化の手本としてフランス語とフランス古典主義が尊ばれていた。若い作家たちにとって、規則ずくめのフランス風の文学は、借り物であると同時に、自分たちを縛るものでもあった。ドイツ語で、規則に頼らず、自分たちの声で書きたい——反発には、この民族的な動機も混じっている。
思想の面で火をつけたのが批評家ヘルダーである。規則に従って書かれた詩よりも、民衆が歌い継いできた民謡や、規則を平然と破るシェイクスピアのような天才の作品こそが本物だ、と説いた。1770年、シュトラスブルクでヘルダーと出会った若いゲーテは、この考えに強い衝撃を受ける。運動はここから動き出した。
何を価値としたか
この運動が中心に置いたのは、規則よりも感情、型よりも独創、社会の約束事よりも個人の内なる声である。古典主義が重んじた均整や節度は、生命を締めつけるものとして退けられた。
とりわけ重んじられたのが「天才」という考え方である。芸術家は、規則を学んで従う職人ではなく、内から湧き出るものをそのまま形にする存在だ、とされた。手本は自然そのものであり、そして規則を無視して傑作を書いたシェイクスピアだった。演劇では、フランス古典主義が課したの規則が公然と破られ、場面も時間も自由に飛ぶ劇が書かれるようになる。
代表作
ゲーテの小説若きウェルテルの悩み(1774年)が、この運動を象徴する。報われぬ恋に苦しむ青年ウェルテルが、手紙の形で激しい感情を吐き出し、最後にみずから命を絶つ。理性ではどうにもならない情熱を、抑えずに書き切った作品である。若者たちはウェルテルに熱狂して同じ青い上着と黄色いチョッキを着るようになり、後を追う自殺まで起きたと伝えられる。文学が現実の若者の生き方を動かした、初期の大きな例になった。
ゲーテは同じ頃、戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)で、中世ドイツの実在の騎士を主人公に、場面が自由に飛ぶシェイクスピア風の劇を書いている。三単一の規則を正面から破った作品として、当時の演劇に衝撃を与えた。
シラーの戯曲『群盗』(1781年)は、腐敗した社会に反逆して盗賊の頭になる青年を描き、既成の秩序への怒りを舞台にぶつけた。上演は熱狂を呼んだが、シラー自身は無断で劇場に赴いたことを咎められ、故郷を出奔することになる。
ロマン主義と混同しない
ここが整理しにくい点である。感情や個人を掲げる点で、疾風怒濤はロマン主義とよく似ている。だが両者は同じものではない。
| 疾風怒濤 | ドイツ・ロマン主義 | |
|---|---|---|
| 時期 | 1770年代 | 1790年代以降 |
| 担い手 | 若き日のゲーテ・シラー | ノヴァーリス・ティークら次の世代 |
| 向かう先 | 現実の社会への反抗、激情 | 夢・無限・幻想、詩と哲学の融合 |
疾風怒濤は十年ほどで収束し、当のゲーテとシラーは、やがて激情から離れて、古代ギリシャを範とする均整の取れたドイツ古典主義へと進んだ。ドイツ・ロマン主義は、その古典主義と並走・対抗しながら、次の世代が始めた運動である。疾風怒濤はロマン主義の先駆であって、ロマン主義そのものではない。
後世への影響
感情・自然・個人・天才を文学の中心に据えたこの姿勢は、運動の終息後も消えなかった。規則より内なる声を信じるという発想は、一世代のちのロマン主義がまるごと受け継ぎ、ヨーロッパ全体へ広げていく。
もう一つの遺産が、ドイツ語の文学が自立したことである。フランス古典主義を手本にする段階を脱し、ドイツ語で自分たちの主題を書けると示したこの運動は、続くドイツ古典主義とあわせて、ドイツ文学が世界の文学の中で確かな位置を占める出発点になった。