感傷主義とは? 「感じる心」を価値に置いた18世紀の文学
- 発祥
- イギリス
- 年代
- 1740–1780
- 主な国
- フランス・イギリス・ドイツ
感傷主義(センチメンタリズム)は、18世紀のヨーロッパで、涙や同情、心のふるえといった「感じる心」を、人間の値打ちの証として重んじた文学の流れである。理性を何より頼りにした啓蒙思想への、内側からの揺り戻しとして現れた。
背景 — 理性だけでは足りない
啓蒙の時代、人を導くのは冷静な理性だとされた。だが18世紀の半ばになると、それだけでは足りない、という感覚が広がる。
きっかけの一つが、当時の道徳をめぐる議論だった。人はなぜ善い行いをするのか。計算や理屈からではなく、他人の苦しみを見たときに自然と胸が痛む——その同情心こそが道徳の源だ、と説く哲学者たちが現れる。ならば、心が繊細にふるえること、涙を流せることは、その人の善良さの証だということになる。
もう一つが、読者層の変化である。18世紀のイギリスでは、都市の中産階級、とりわけ女性の読者が育ち、貸本屋を通して小説が広く読まれるようになっていた。身分の高い英雄の武勲ではなく、自分たちと地続きの人物が悩み苦しむ物語が求められる。この「感じる心(感受性)」を尊ぶ気分が、文学の主題になっていく。
イギリス — 涙を流させる小説の誕生
火をつけたのは、リチャードソンである。手紙だけで物語を進める書簡体小説という形をとり、追いつめられていく人物の心の動きを、その場で書きつづられる言葉として読者に差し出した。
『パミラ』(1740年)は、主人の言い寄りに抗う女中が、自分の恐れと迷いを手紙に書き続ける。『クラリッサ』(1748年)は、家族と放蕩者のあいだで追いつめられ破滅していく女性を、百万語に及ぶ膨大な手紙で描いた。読者は登場人物の内側に閉じ込められ、その苦しみを共に味わうことになる。ヨーロッパ中の読者が涙を流し、クラリッサの死を悼む手紙が作者のもとに届いたと伝えられる。
スターンは、この流れを少しずらして受け止めた。『センチメンタル・ジャーニー』(1768年)の語り手は、旅先のささいな出会い——死んだロバを悼む男、籠の中の椋鳥——のたびに心を動かし、涙ぐむ。「センチメンタル」という語を書名に掲げ、この言葉を広めたのがこの作品である。ただしスターンには、感じやすさをやや突き放して眺める諧謔があり、感傷主義を実践しながら、同時にその滑稽さも見せている。トリストラム・シャンディの脱線だらけの語りにも、同じ姿勢がうかがえる。
フランスとドイツへ
フランスではルソーの書簡体小説新エロイーズ(1761年)が、身分違いの激しい恋を情感豊かに描いて大評判をとった。理性より心の声を信じるルソーの姿勢は、教育論エミールや自伝告白にも通じている。
ドイツでは若いゲーテの若きウェルテルの悩み(1774年)が、報われぬ恋に泣く青年を描き、各国の若者を熱狂させた。ドイツではこの感受性が、より激しい情熱と反抗に結びつき、疾風怒濤という運動に流れ込んでいく。
| 国 | 代表作 | 特徴 |
|---|---|---|
| イギリス | 『パミラ』『クラリッサ』トリストラム・シャンディ | 書簡体による内面の描写。涙と同情 |
| フランス | 新エロイーズ | 情熱と美徳の葛藤、自然への感情 |
| ドイツ | 若きウェルテルの悩み | 激情と反抗。疾風怒濤へ |
「感傷的」という語が悪い意味になったのはなぜか
今日「センチメンタル」という語は、「安易に涙を誘う」「感情におぼれた」という、必ずしも褒め言葉ではない意味で使われる。だが18世紀にこの語が生まれたときは違った。細やかに感じ取れることは、教養と善良さの証であり、称賛の言葉だったのである。
評価が反転したのは、19世紀以降である。涙を流すこと自体を目的にしたような作品が量産され、その型が擦り切れたこと。そして写実主義が、理想化や誇張を排して現実をありのままに描く方向へ進み、過剰な感情表現を退けたことによる。感傷主義を「感情におぼれた古い文学」と読むのは、後の時代の物差しを当てた見方であって、当時の意味ではない。
後世への影響
感傷主義は、理性の時代のただ中で、感情を文学の正面へ引き出した。この姿勢は次の世紀のロマン主義に受け継がれ、いっそう大きく展開する。
文学の技法としても、二つの遺産を残した。一つは、書簡体を通して人物の内面をその場で追う描き方で、これは近代小説の心理描写の出発点になった。もう一つは、身分の高い英雄ではなく、ふつうの個人の私的な感情を主題にしてよい、という前提である。今日の小説が当たり前としているこの二つは、感傷主義の時代に確立された。