モデラート・カンタービレ
- 作者
- マルグリット・デュラス
- 成立
- 1958
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
殺人事件に取り憑かれた人妻が、場末の男と危うい対話を重ねる小説である。
デュラスは、太平洋の防波堤のような物語的な小説から、しだいに断片的で詩的な、独特の文体へと向かった。この『モデラート・カンタービレ』は、その転換を示す、代表作にあたる。 ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の一作としても数えられる。
物語はある殺人事件から始まる。上流階級の人妻アンヌが、子どもをピアノのレッスンに連れて行った、その帰り、場末のカフェで、一件の事件を目撃する。一人の男が愛する女を、その女自身の求めに応じて、射殺したのである。 女は、殺されながら、恍惚とした表情を浮かべていた。
この愛と死が結びついた事件に、アンヌは、激しく取り憑かれる。彼女はその後、繰り返し、事件の起きたカフェに通うようになる。そこで工場労働者の男ショーヴァンと出会い、二人は、酒を飲みながら、あの殺人事件について、語り合う。
対話を重ねるうちに、二人は、事件の男女に、自分たちを重ね始める。満たされぬ結婚生活に倦むアンヌと、ショーヴァンとのあいだに、危険な、そして成就しない情念が、静かに高まっていく。 会話と、沈黙と、酒だけで進む、緊張に満ちた物語である。
文学史における評価と影響
デュラスの文体的な転換を示す代表作であり、ヌーヴォー・ロマンの流れに位置づけられる作品とされる。
この作品の特徴はその独特の文体にある。デュラスは出来事を、直接に描かない。すべては断片的な会話と、長い沈黙と、暗示によって、間接的に語られる。何が起きているのかは明示されず、緊張と情念だけが、静かに行間から立ちのぼる。この削ぎ落とされた詩的な文体が、後年のデュラス文学を、決定づけた。
主題は満たされぬ欲望と、愛と死の結びつきである。アンヌは退屈な上流の結婚生活に、窒息しかけている。彼女が殺人事件に取り憑かれるのは、その事件の底に、自分に欠けている、激しい情念——愛の極みとしての死を、見るからである。
「モデラート・カンタービレ」という題は音楽用語で、「中くらいの速さで、歌うように」という意味である。子どものピアノのレッスン曲の指示であると同時に抑制された表面の下で、静かに高まっていく情念のあり方を暗示している。
会話と暗示だけで、これほどの緊張と情念を築いたこの作品は、現代小説の一つの達成とされる。ジャン=ポール・ベルモンド主演で映画化もされ、広く知られた。
あらすじ
フランスの海辺の地方都市。上流階級の人妻アンヌ・デバレードは、平穏だが退屈な日々を送っている。裕福な工場主の夫と、幼い息子。何不自由ないその暮らしに、彼女は、静かに窒息しかけていた。
ある日、アンヌは、息子を、ピアノの個人レッスンに、連れて行く。そのレッスンの最中、階下の場末のカフェから、突然女の悲鳴が、響きわたる。
アンヌがレッスンの帰りに、そのカフェを覗くと、そこでは、一件の殺人事件が、起きたばかりだった。一人の男が床に倒れた女を、抱きしめ、その唇に、口づけしている。男は愛する女を、その女自身の懇願に応じて、拳銃で撃ち殺したのだった。 死んだ女の顔には、恍惚とした、幸福そうな表情が、浮かんでいた。
この愛と死が一つになった光景は、アンヌの心を、深く揺さぶる。彼女はこの事件に、取り憑かれてしまう。
翌日から、アンヌは、口実を作っては、その事件の起きたカフェに、足を運ぶようになる。そしてそこで一人の男と、知り合う。夫の工場で働く労働者、ショーヴァンである。
二人はカフェで、安いワインを飲みながら、話し始める。話題はいつもあの殺人事件のことだった。 なぜ、男は、女を殺したのか。女はなぜ、殺されることを、望んだのか。二人はその事件の男女の心を、想像し、語り合う。
日を重ねるにつれ、アンヌとショーヴァンは、しだいに事件の男女に、自分たち自身を、重ね始める。 彼らの対話は、殺された女の物語であると同時に二人自身の危うい思いの告白のようになっていく。
満たされぬ結婚生活に倦むアンヌと、彼女に惹かれるショーヴァン。二人のあいだには口には出されぬ、しかし激しい情念が、静かに高まっていく。 アンヌは、酒に酔い、家庭を顧みなくなり、上流社会での立場を、危うくしていく。
だが二人の関係はあの事件の男女のように、燃え上がることも、成就することも、ない。語り合われるのはつねに他人の愛と死であり、二人自身の思いは、決して、はっきりとは、遂げられない。
会話と、沈黙と、酒だけで進む、抑制された緊張。満たされぬ欲望と、愛の極みへの危険な憧れを、静かに描いて、この物語は、成就しないまま、閉じられる。