マリーナ・ツヴェターエワ

原綴
Марина Цветаева
生没
1892–1941
出身
モスクワ
ロシア
時代
銀の時代

生涯

1892年、モスクワの教養ある家に生まれた。父は美術史家で、美術館(現在のプーシキン美術館)の創設者である。母はピアニストだった。恵まれた文化的な環境で育ち、早くから詩を書いた。十八歳で、自費で最初の詩集を出している。

1912年に結婚した。だが、その結婚生活は、革命と内戦によって、引き裂かれていく。

革命後、内戦の時期に、ツヴェターエワはモスクワで、極度の困窮に陥った。夫は白軍に加わり、消息が途絶える。彼女は、二人の娘を抱えて、飢餓のなかで生きた。1920年、幼い次女を、飢えのために孤児院で失っている。

1922年、夫の生存を知り、ロシアを離れて亡命した。ベルリン、プラハ、そしてパリで、亡命者として過ごす。だが、亡命社会のなかでも、その激しい性格と、独自の作風ゆえに、孤立していった。生活は、常に貧しかった。

夫が、ソ連の秘密警察に関与していたことが発覚し、亡命社会での立場は、決定的に悪化した。1939年、ツヴェターエワは、家族を追って、ソ連へ帰国する。だが、待っていたのは、破滅だった。夫は逮捕されて銃殺され、娘も逮捕された。

第二次大戦が始まり、ドイツ軍が迫るなか、ツヴェターエワは、僻地のエラブガへ疎開させられた。仕事もなく、孤立し、追い詰められた末、1941年、この地で自ら命を絶った。四十八歳だった。

作風

ツヴェターエワの詩は、激烈である。

その感情は、抑制されない。愛、憧れ、別離、憤り。すべてが、最大の強度で、噴出する。アフマートワの詩が、抑制と静けさによって迫るのに対し、ツヴェターエワの詩は、激情の直接の噴出によって、読者を圧倒する。

言葉づかいが、破格である。通常の統語を破り、言葉を切り詰め、ダッシュ(——)を多用して、思考の飛躍を、そのまま刻む。感嘆符が連なり、リズムが激しく脈打つ。彼女の詩は、朗読されると、その息づかいの激しさが、際立つ。

音への感覚が、鋭い。同じ音を持つ言葉を、連ねる。語源をたどり、言葉を分解し、その音の連想によって、詩を展開させる。この言葉の音そのものから詩を生み出す方法は、翻訳を、極めて困難にする。

主題の中心にあるのは、愛である。だが、その愛は、成就する愛ではない。むしろ、隔たり、不在、到達しえないものへの憧れである。愛する対象は、しばしば、遠くにいるか、あるいは、応えない。その隔たりの緊張が、詩を生む。

書簡も、その文学の重要な部分をなす。パステルナークリルケとの三者の往復書簡は知られている。手紙のなかでも、ツヴェターエワは、詩と同じ激しさで、書いた。

作品

『夕べのアルバム』(1910年)

十八歳のときの最初の詩集である。

『白鳥の陣営』

内戦期に、白軍に共感して書かれた詩群である。革命に敗れた側への挽歌にあたる。

「終わりの詩」「山の詩」(1924年)は、亡命初期の愛と別離を歌った長編詩の代表作である。

『ロシア以後』(1928年)

亡命期の詩集である。

散文とエッセイも多く残した。詩人論、回想、そして書簡である。プーシキン論「わがプーシキン」も知られる。

日本語では詩と散文の抄訳がある。

文学史における立ち位置と影響

ツヴェターエワは、20世紀ロシア詩を代表する詩人の一人である。アフマートワマンデリシタームパステルナークと並んで、銀の時代の頂点に立つ。この四人は、しばしば一括して語られる。

その詩の激烈さと、言葉の実験は、独自の位置を占める。感情を抑制するアフマートワとは、対照的である。二人は、しばしば、20世紀ロシア女性詩人の二つの極として並べられる。ツヴェターエワの統語を破り、音から詩を生み出す方法は、後の詩人たちに影響を与えた。

亡命と帰国、そして自死という運命は、20世紀ロシアの悲劇を、凝縮している。革命、内戦、飢餓、亡命、そして帰国後の破滅。この時代がもたらしたあらゆる災厄が、一人の詩人の生涯に、集中している。アフマートワが生き延びて証人になったのに対し、ツヴェターエワは、その渦中で滅びた。

生前の評価は、限られていた。亡命社会でも、ソ連でも、その居場所はなかった。同時代に、正当に理解されることが、ほとんどなかった。再評価が本格化するのは、死後、雪解け以降である。今日では、ロシア詩の最も重要な詩人の一人とされる。

パステルナークリルケとの往復書簡は、詩をめぐる、三人の詩人の対話として、独自の価値を持つ。

日本での受容は、銀の時代への関心のなかで進んだ。その激しい詩と、悲劇的な生涯が、注目されている。

登場する文学史