ウラジーミル・マヤコフスキー

原綴
Владимир Маяковский
生没
1893–1930
出身
バグダディ(現・ジョージア)
ロシア
時代
銀の時代

生涯

1893年、グルジア(現在のジョージア)の森林官の家に生まれた。父の死後、一家はモスクワへ移る。貧しい生活のなかで、少年マヤコフスキーは、早くから社会主義の運動に加わった。十代で三度逮捕され、投獄されている。

出獄後、美術学校に学んだ。ここで未来派の芸術家たちと出会う。機械と速度の時代にふさわしい芸術を作るとして、過去の遺産をすべて捨てようとした一群である。1912年、その仲間とともに宣言「社会的趣味への平手打ち」に署名した。プーシキンらの古典を「現代の汽船から投げ捨てよ」と宣言する、挑発的なものだった。

革命前から、その巨大な体躯と、朗々たる声で詩を朗読し、聴衆を圧倒した。詩を、書物のなかの静かな芸術から、街頭で叫ぶ、身体的な行為へと変えた。

1917年の革命を、全身で歓迎した。以後、革命に自らのすべてを捧げる。詩だけでなく、革命のためのポスターの制作、標語の作成、宣伝活動に、精力的に取り組んだ。芸術を、革命に奉仕する道具として位置づけた。

だが革命後の現実が、次第にマヤコフスキーを追い詰めていく。官僚主義への幻滅、恋愛の苦悩、そして、その前衛的な芸術が、次第に体制から疎まれていったこと。1930年、マヤコフスキーは拳銃で自らを撃ち、三十六歳で死んだ。革命の詩人の自死は、大きな衝撃を与えた。

作風

未来派として、既存の詩の言葉と形を根底から壊そうとした。優美な詩語を捨て、街頭の言葉、粗野な語彙、新造語を、詩に持ち込んだ。詩の形も破壊した。有名な「階段状」の詩行——一行を短く区切り、階段のように配置する——は、朗読のリズムを視覚化したものである。詩を、目で読むものから、声で叫ぶものへ変えた。

大胆な比喩と誇張が、その特徴である。自分自身を巨大な存在として描き、都市や宇宙と対等に渡り合う。感情も、抑制されることなく、最大の音量で叫ばれる。愛も、憎しみも、革命への情熱も、すべてが誇張されたスケールで表現される。

初期の長編詩「ズボンをはいた雲」は、失恋の苦しみを、社会への反逆と重ね合わせて歌う。個人の激情が、既存の秩序全体への挑戦へと膨れ上がっていく。

革命後は、その詩を、公共の目的に捧げた。「レーニン」「よろしい!」といった長編詩は、革命と、新しい社会を讃える。宣伝詩、標語、風刺詩を、大量に書いた。芸術を、社会を変えるための実践とした。

だが、その公的な詩の裏で、個人的な苦悩の詩も書き続けた。恋愛の苦しみを歌った詩は、革命讃歌とは別の痛切な調子を持つ。死の直前に書かれた未完の詩「声を限りに」は、自らの生涯を総括する、痛切なものである。

作品

「ズボンをはいた雲」(1915年)は、初期の長編詩の代表作である。失恋を、社会への反逆と重ねて歌う。

「一億五千万」(1921年)は、革命後の民衆を讃えた長編詩である。

「これについて」(1923年)は、愛を主題にした長編詩にあたる。

「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」(1924年)は、レーニンの死を悼む長編詩である。

戯曲も書いた。「南京虫」「風呂」は、革命後の官僚主義や俗物性を風刺した喜劇である。

日本語では詩の抄訳がある。

文学史における立ち位置と影響

マヤコフスキーは、ロシア未来派を代表する詩人であり、革命の詩人の象徴的な存在である。

詩の言葉と形を刷新した功績が大きい。街頭の言葉を詩に持ち込み、朗読の身体性を重んじ、詩の視覚的な形を実験した。この革新は、20世紀の詩に、新しい可能性を開いた。詩を、書斎の芸術から、公共の広場の芸術へと引き出した。

芸術と革命の関係の一つの極を体現している。芸術を、革命に完全に奉仕させるという立場を、徹底して実践した。この姿勢は、後の前衛芸術と政治の関係をめぐる議論の重要な参照点になった。

その死は、革命と芸術家の関係の悲劇を象徴するものとして、繰り返し語られてきた。革命に全身を捧げた詩人が、その革命の現実のなかで追い詰められて自死した。この事実は、多くの解釈を呼んだ。パステルナークは、マヤコフスキーの死について、深い言葉を残している。

死後、スターリンによって「わが時代の最良にして最も才能ある詩人」と評されたことで、公式に神格化された。だが、パステルナークは、この公式化を、「マヤコフスキーの第二の死」と呼んだ。生きたマヤコフスキーの複雑さが、公式の偶像によって覆い隠された、という意味である。

日本での受容は早く、プロレタリア文学の運動のなかで、革命詩人として熱心に紹介された。その階段状の詩形は、日本の詩人にも影響を与えている。

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