ルネサンス人文主義とは? 古代に立ち返り、人間を探究した学芸

発祥
イタリア
年代
1500–1600
主な国
フランスイギリス

ルネサンス人文主義は、14世紀のイタリアに始まり、古代ギリシャ・ローマの文献に立ち返って、人間の営みそのものを研究の対象にした学芸の運動である。中世の学問が神学と論理学を中心に据えたのに対し、関心を人間の側——言葉、歴史、道徳、生き方——へ移した。「人文主義」とは、もともとこうした古典の学び(文法・修辞・詩・歴史・道徳)を指す言葉である。

原典に立ち返る

出発点は14世紀イタリアの詩人ペトラルカとされる。それまで、古代の書物は中世の学者がつけた注釈を通して読まれていた。人文主義者は、注釈をはさまず原典そのものに当たること、失われた古代の写本を探し出して正しい本文を回復することを重んじた。ギリシャ語の写本がビザンツ帝国からイタリアへ流入したことが、この動きを支えている。15世紀半ばに実用化された活版印刷が、回復された古典を安く大量に広めた。

原典に当たる姿勢は、やがて人間そのものへの関心に向かう。人間の可能性、教育、徳とは何か。神が定めた秩序の一部としてではなく、人間の営みを正面から扱うようになった。オランダのエラスムスは、聖書を原典のギリシャ語から校訂しなおす一方、『愚神礼讃』(1511年)で当時の聖職者の腐敗を風刺している。

俗語で書くという選択

この時期の書き手は、一つの選択を迫られた。格の高いことを書くならラテン語で書くのが当然とされた時代に、あえて自国語(俗語)で書くかどうかである。モアは理想の社会を描いたユートピアをラテン語で書いた(イギリス)。一方、ラブレーは巨人の親子をめぐる奔放な物語をフランス語で書き、デュ・ベレーは1549年に『フランス語の擁護と顕揚』を発表して、フランス語を古典語に負けない高さまで鍛えよと主張した。

俗語で書く流れは、すでにイタリアのダンテに始まっていた。人文主義はこの流れを押し広げ、各国語の文学が立ち上がる土台になっていく。

モンテーニュと懐疑

モンテーニュエセー(1580年)は、この運動が到達した一つの極である。主題は自分自身であり、結論を急がず、矛盾したまま考えを並べていく。「エセー」とは「試み」を意味し、随筆という形式そのものがここで生まれた。

ひだ襟をつけた、ミシェル・ド・モンテーニュの肖像(版画)。
随筆『エセー』で自分自身を主題にしたミシェル・ド・モンテーニュ。

重要なのは、これが宗教戦争のさなかに書かれたことである。確信を持った人間が、信仰の名のもとに隣人を殺していた時代に、モンテーニュは「私は何を知っているか」と問い、性急に断定しないことそのものを一つの態度として示した。原典に立ち返り人間を見つめた人文主義が、最後にたどり着いたのが、この懐疑の姿勢だったことになる。

後世への影響

人文主義は、二つの大きなものを後世に残した。一つは、俗語で書くという選択が各国に広がり、それぞれの国語による文学が立ち上がる土台になったこと。もう一つは、古典を正確に読み、事実を自分の目で確かめようとする学問の姿勢で、これは今日の人文学(ヒューマニティーズ)の源流にあたる。神学の枠を離れて人間そのものを探究するというその向きは、続く時代の思想と文学の前提になっていく。

この思潮の作家

フランス

イギリス