事件

作者
大岡昇平
成立
1977
日本
時代
現代

概要

一件の殺人事件をめぐる裁判の全過程を、克明にたどった法廷小説である。

大岡昇平は、野火俘虜記などの戦争文学で知られる。だがこの『事件』は、まったく異なる、現代を舞台にした法廷小説にあたる。

物語は地方の町で起きた、一件の殺人事件から始まる。姉妹の姉が刺し殺されて発見される。逮捕されたのはその姉と関係を持っていた、若い工員の坂井である。 坂井は、姉ではなく、その妹と恋愛関係にあった。

事件は一見、単純な痴情のもつれに見える。だが裁判が進むにつれ、事実は、そう単純ではないことが分かってくる。 坂井は、殺害を認めるが、それは正当防衛だった、と主張する。姉が刃物を持って襲ってきたのを、もみ合ううちに、はずみで刺してしまったのだ、と。

小説はこの事件の裁判を、弁護士、検察官、証人、そして被告人の証言を通して、克明に再現していく。 一つ一つの事実が、法廷で吟味され、突き合わされ、真相が少しずつ浮かび上がる。

大岡が野火で戦場の極限を、俘虜記で自分の心理を、冷静に分析したように、この作品でも大岡は一件の事件の真実を、事実の丹念な積み重ねによって、明らかにしようとする。 その知的な手法が、法廷小説として結実している。

文学史における評価と影響

大岡昇平の晩年を代表する長篇であり、日本の法廷小説(リーガル・サスペンス)の名作とされる。

この作品の特徴は裁判の過程を、精密に、忠実に再現した点にある。大岡は実際の刑事裁判の手続きを、綿密に取材した。起訴、公判、証人尋問、弁論、そして判決。その一つ一つが法律の専門的な細部まで、正確に描かれる。法廷小説として、その実証性はきわめて高い。

主題は一つの事実の真実は、いかにして明らかになるかである。事件そのものは単純に見える。だが被告や証人の証言は、食い違い、記憶は曖昧で、真実は容易には見えない。大岡はその錯綜した事実を、法廷という場で、一つ一つ吟味していく。 真実に迫るその過程が、サスペンスを生む。

大岡の一貫した方法がここにも現れている。野火俘虜記で、大岡は、極限の体験を、感傷を排して冷静に分析した。この作品でも一件の殺人を、事実の精密な検証によって捉えようとする。 戦場も法廷も、大岡の知的で分析的な目は、変わらない。

この作品はテレビドラマ化・映画化もされ、広く親しまれた。戦争文学の作家というイメージの強い大岡の幅の広さを示す代表作として、読み継がれている。

あらすじ

地方の小さな町。ある雨の夜、一人の女が、刺し殺されて発見される。被害者はハツ子という女である。

ほどなく、犯人として、若い工員坂井が逮捕される。坂井は被害者ハツ子と、肉体関係を持っていた。だが坂井が本当に愛していたのは、ハツ子の妹のまだ十代のヨシ子だった。

事件は一見、単純な痴情のもつれに見えた。姉と関係を持ちながら、その妹に心を移した男が、姉ともつれて、殺してしまった。 世間も、当初は、そう見た。

だが裁判が始まると、事は、そう単純ではないことが、明らかになっていく。

坂井は殺害の事実そのものは、認める。だがそれは殺意による殺人ではなく、正当防衛だった、と主張する。あの夜、ハツ子は、別れ話のもつれから、刃物を持って坂井に襲いかかった。その刃物を奪おうともみ合ううちに、はずみで、ハツ子を刺してしまったのだ、と。

裁判はこの主張の真偽をめぐって、争われる。検察官はこれを計画的な殺人だと主張し、弁護士は、正当防衛を立証しようとする。

法廷ではさまざまな証言が交わされる。現場の状況、凶器の握り方、傷の角度、坂井とハツ子の関係、そして妹ヨシ子の証言。 一つ一つの事実が、慎重に吟味され、突き合わされていく。

弁護士は法医学的な証拠や、現場の再現をもとに、坂井の主張が真実であることを、粘り強く立証しようとする。傷が正面からのものか、もみ合いのなかでできたものか。刃物を、どちらが握っていたか。 細部の事実が、正当防衛か殺人かを、分ける。

裁判が進むにつれ、単純に見えた事件の奥に、人間の複雑な感情の絡み合いが、浮かび上がってくる。姉妹の関係、坂井の本当の思い、そしてそれぞれの隠された心。

大岡はこの裁判の全過程を、法律の手続きに忠実に、克明にたどっていく。そして丹念に積み重ねられた事実のなかから、事件の真実が、少しずつ姿を現していく。

一件の殺人事件の真実を、法廷という場で、事実の検証によって明らかにする。その知的な過程を描き切って、この法廷小説は、判決へと向かっていく。

作者

登場する文学史