夜の果てへの旅
- 原題
- Voyage au bout de la nuit
- 作者
- ルイ=フェルディナン・セリーヌ
- 成立
- 1932
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
1932年に刊行された長篇小説である。日本語訳で八百ページ前後になる。医師ルイ・デトゥーシュが、母方の祖母の名を借りたルイ=フェルディナン・セリーヌという筆名で発表した最初の小説にあたる。
語り手バルダミュが、第一次世界大戦への従軍から始めて、フランス領アフリカの交易所、デトロイトの自動車工場、パリ郊外の診療所へと移っていく。行く先々で見るのは戦争の無意味、植民地の収奪、流れ作業、貧困である。
この作品が文学史に残る最大の理由は文体にある。それまでのフランス小説は、話し言葉を登場人物の台詞にだけ使い、地の文は整った書き言葉で書いた。セリーヌは地の文にも俗語と罵倒語を持ち込み、三点リーダで文を断ち切り、感嘆符を多用した。
なお作者は1930年代後半に反ユダヤ主義の文書を発表し、占領下では対独協力の側に立った。この経歴と作品の評価をどう扱うかは、いまも決着していない。
作者は1894年、パリ郊外クールブヴォワに生まれた。本名ルイ・デトゥーシュ。母は小間物商、父は保険会社の事務員である。1912年に騎兵連隊に志願し、第一次大戦の初年に右腕を負傷して除隊した。その後、カメルーンの交易会社に勤め、帰国後に医学を修めて医師になった。パリ北郊のクリシーで、貧しい患者を診る診療所に勤めている。作中の遍歴はこの経歴をなぞる。
刊行の年、この作品はゴンクール賞の有力候補になった。下馬評では受賞確実とされていたが、投票の結果は別の作家に決まり、セリーヌは落選した。この決定は当時から議論を呼び、選考の政治性を示す例として引かれる。翌年、別の賞であるルノドー賞を受けている。
文学史における評価と影響
文体の転換がこの作品の中心にある。話し言葉を地の文に持ち込み、語順を崩し、三点リーダで息継ぎを作る。セリーヌはこれを、書き言葉では伝わらない感情の動きを直接伝えるための方法だと説明した。以後のフランス小説で、地の文に話し言葉を使うことは選択肢の一つになった。
同時代の作家への影響も大きい。サルトルは嘔吐の題辞にセリーヌの文を引いている。ボーヴォワールも刊行当時この作品を高く評価した。
人間観は一貫して暗い。戦争でも植民地でも工場でも貧民街でも、人は互いに搾取し、嘘をつき、弱い者を踏む。進歩も救済も出てこない。第一次大戦で19世紀以来の進歩の信念が壊れた後の感覚を、正面から書いた作品として位置づけられる。
同時に、バルダミュは医師として貧しい患者を診続ける。何も解決できないまま往診に通う。この持続を、罵倒一色ではない部分として指摘する読み方がある。
作者の政治的な経歴は評価と切り離せない問題として残っている。1937年の『虐殺のためのバガテル』をはじめとする反ユダヤ主義の文書、占領下での立場。戦後はデンマークに逃れて投獄され、1951年に恩赦で帰国した。1961年に死去している。この作品自体には反ユダヤ主義の記述はないが、同じ人物の書いたものとしてどう扱うかについて、研究者のあいだで立場が分かれたままである。2011年、フランス政府がセリーヌを国の記念行事の対象者一覧に載せたところ抗議が起き、削除された。
あらすじ
戦争。1914年、パリのカフェで、二十歳のバルダミュは通りかかった連隊の音楽に乗せられ、勢いで志願する。配属された前線で待っていたのは、目的の分からない移動と砲撃だった。上官の大佐は伝令が届く前に砲弾で吹き飛ばされる。バルダミュは、敵味方を問わず全員が正気を失っていると考える。
夜間の偵察で、バルダミュは予備役の下士官ロバンソンに出会う。ロバンソンも同じことを考えており、二人は一緒に捕虜になろうとして失敗する。この人物は以後、行く先々でバルダミュの前に現れる。
負傷して後方に送られ、パリで療養する。街では女たちが軍人を英雄扱いしている。バルダミュは精神の異常を装って除隊を勝ち取る。
アフリカ。フランス領アフリカの交易所に職を得る。着いてみると、前任者は逃げた後で、商品はゴム靴の在庫だけ、帳簿は合わない。酷暑と熱病、現地人からの買い叩き、白人同士の憎み合い。前任者はロバンソンだった。バルダミュは高熱を出し、小屋に火を放って逃げ、船で運ばれる。
アメリカ。船はニューヨークに着く。バルダミュは検疫所で蚤の検査係として働き、脱走して市内に入る。デトロイトのフォードの工場に雇われる。診察で医師は、頭がよくない方が仕事に向いていると言う。工場では機械の音で会話が成立しない。
娼婦モリーと知り合い、しばらく養われる。モリーは金を出して勉強させようとするが、バルダミュは去る。作中でバルダミュが好意を持って書く数少ない人物にあたる。ここでもロバンソンに出くわす。
パリ郊外。フランスに戻り、医学を修めて、パリ北郊のランシー=ラ・ガレンヌで開業する。患者は金を払わない。堕胎を頼みに来る者、老いた親を厄介払いしたい家族、子を虐待する夫婦。バルダミュは往診に呼ばれては、何もできずに帰る。
アンルイユ家では、息子夫婦が老いた姑を物置に閉じ込めている。夫婦はロバンソンに金を渡し、姑を爆殺する仕掛けを頼む。ロバンソンは仕掛けの設置中に爆発を起こし、失明する。
その後、ロバンソンと姑は南フランスのトゥールーズに移り、二人でミイラを見せる見世物小屋を営む。ロバンソンは視力を取り戻し、店の娘マドロンと婚約する。だが姑は階段から落ちて死ぬ。
ロバンソンはマドロンから逃げ、パリに戻る。バルダミュは精神病院に職を得ており、ロバンソンをそこに置く。マドロンが追ってくる。
物語の終わり近く、四人でセーヌ河畔に出かけた帰り、辻馬車の中でマドロンがロバンソンに結婚を迫る。ロバンソンは、お前も何もかも気に入らないと言い放つ。マドロンは拳銃を三発撃つ。
バルダミュはロバンソンの死を看取る。死んでいく男を見ながら、自分にはこの男に言ってやれることが何もないと考える。夜が明け、川の曳舟が汽笛を鳴らす。