ミハイル・ロモノーソフ
- 原綴
- Михаил Ломоносов
- 生没
- 1711–1765
- 出身
- デニソフカ(アルハンゲリスク近郊)
- 国
- ロシア
- 時代
- 近代以前
生涯
1711年、ロシア北部の白海に近い漁民の家に生まれた。貧しい漁師の子である。だが、学問への情熱は、並外れていた。十九歳のとき、独学で身につけた知識をもとに、身分を偽って、モスクワの学校へ入った。飢えと貧困に耐えながら、猛烈に学んだ。
その才能が認められ、ペテルブルクの科学アカデミーへ、次いで、ドイツへ留学した。マールブルク大学などで、化学、鉱物学、物理学を学ぶ。ドイツで結婚し、帰国した。
帰国後、科学アカデミーの一員として、驚くべき多方面の業績を残した。化学、物理学、天文学、地質学、そして歴史学。物質の保存の法則を、独自に提唱したことでも知られる。金星に大気があることを、観測から発見した。ロシア初の化学実験室を作り、モザイク画の技法も研究した。文字通りの万能の学者だった。
同時に、ロシア語と、ロシア文学の改革に取り組んだ。ロシア語の文法を体系化し、詩の韻律の理論を整え、修辞学を著した。科学と文学の両方の土台を、一人で築こうとした。
1755年、モスクワ大学の創設を主導した。この大学は、今日、ロモノーソフの名を冠している。ロシアの近代的な教育と学問の出発点を作った人物である。1765年、五十三歳で死去した。
作風
ロモノーソフの最大の功績は、ロシア語の文章の基礎を築いたことである。
当時のロシア語は、書き言葉として、まだ整備されていなかった。古い教会スラヴ語と、日常のロシア語が、雑然と混じり合っていた。ロモノーソフは、これに、秩序を与えた。文体を、高・中・低の三つの位に分ける「三文体論」を提唱し、どの主題には、どの文体を用いるべきかを、体系化した。荘重な主題には、教会スラヴ語を多く含む高文体を、日常的な主題には、口語に近い低文体を。この体系が、以後のロシア語の文章の規範になった。
詩の韻律も整えた。それまでのロシア詩は、音節の数だけを数える方式だった。ロモノーソフは、ドイツ詩に学んで、強勢(アクセント)の規則的な配置による韻律を、ロシア詩に導入した。この改革によって、ロシア詩は、その言語の特性に合った、力強いリズムを得た。以後のロシア詩は、この基礎の上に築かれる。
自らも詩を書いた。とくに「頌詩(オード)」——皇帝や、国家の栄光を讃える、荘重な詩——を得意とした。壮大な言葉で、ロシアの偉大さや、科学の力を歌う。その頌詩は、ロシア古典主義の代表的な達成とされる。
科学を主題にした詩も書いた。神の創造の偉大さを、自然科学の知識をもって歌う。「神の偉大さについての朝の瞑想」では、太陽の壮大さが、科学的な認識とともに詠まれる。学者であり詩人である、この人物ならではの作品である。
作品
『ロシア語文法』(1755年)
ロシア語の文法を、初めて体系的に記述した著作である。近代ロシア語の基礎を築いた。
『修辞学』(1748年)
雄弁術と文章術を論じた。三文体論を含む。
「ホティンの奪取に寄せる頌詩」(1739年)は、新しい韻律を用いた、最初の重要な頌詩である。
「ガラスの効用についての手紙」は、科学を主題にした、詩の形の書簡である。
科学の著作は、化学、物理学、地質学など、多岐にわたる。
日本語では、その業績が、ロシア文学史・科学史のなかで紹介されている。詩の翻訳は限られる。
文学史における立ち位置と影響
ロモノーソフは、近代ロシア語と、ロシア文学の土台を築いた人物である。プーシキンは、ロモノーソフを、ロシアの最初の大学であると評した。一人の人間が、大学に匹敵する働きをした、という意味である。
ロシア語の文章語を確立した功績は、計り知れない。彼が整えた文体の体系と、詩の韻律がなければ、その後のプーシキンをはじめとする、ロシア文学の黄金時代は、ありえなかった。ロシア文学は、ロモノーソフが用意した言語の基盤の上に、花開いた。
ロシア古典主義を代表する詩人でもある。荘重な頌詩の伝統は、ロモノーソフに始まる。この形式は、次の世代のデルジャーヴィンによって、さらに豊かに展開された。
科学と文学を、一人で担ったという点で、その存在は、ロシア文化の出発点を象徴している。西欧に大きく遅れて近代化を始めたロシアが、あらゆる分野を、急いで立ち上げなければならなかった時代。その要請に、一人で応えようとした、百科全書的な人物だった。
近代ロシアの啓蒙の始まりに立つ。ピョートル大帝による西欧化の路線を、学問と文化の面で、実質的に担った。
日本では、その多面的な業績が、ロシア文化史のなかで紹介されている。詩人としてより、ロシア近代化の巨人として知られている。