ガヴリーラ・デルジャーヴィン
- 原綴
- Гавриил Державин
- 生没
- 1743–1816
- 出身
- カザン近郊
- 国
- ロシア
- 時代
- 近代以前
生涯
1743年、カザン近郊の貧しい貴族の家に生まれた。父は下級の軍人だった。
正規の高等教育は受けていない。兵卒として軍隊に入り、下積みから身を起こした。1773年からのプガチョフの乱(農民反乱)の鎮圧に加わり、頭角を現す。
その後、文官に転じ、異例の出世を遂げた。女帝エカチェリーナ二世に、その詩によって認められ、寵愛を受ける。県知事、皇帝の秘書官などを歴任し、最終的には、司法大臣にまで昇った。
だが、その官僚としての経歴は、順風満帆ではなかった。生来の率直で妥協を許さない性格ゆえに、上司や、時には女帝自身とも、衝突した。不正を憎み、直言をためらわなかったため、たびたび失脚と復帰を繰り返している。
1803年、官職を退いた。以後、領地で、詩作と、後進の育成に専念する。晩年、少年時代のプーシキンの詩の朗読を聞き、その才能を認めて祝福した、という有名な逸話がある。旧世代の巨人が、新世代の天才に、いわば詩の継承を託した瞬間として、語り継がれている。1816年、七十三歳で死去した。
作風
デルジャーヴィンは、荘重な頌詩の形式に、個人の声を持ち込んだ。
ロモノーソフが確立した頌詩(オード)は、国家や皇帝の栄光を、荘重な言葉で讃える、格式ばった形式だった。デルジャーヴィンは、この形式を受け継ぎながら、そこに、新しいものを吹き込んだ。荘重さのなかに、日常の生活の細部、諧謔、そして詩人自身の生身の声を、持ち込んだのである。
代表作「フェリーツァ」は、女帝エカチェリーナ二世を讃える頌詩である。だが、それは、単なる型どおりの讃美ではない。理想の女帝フェリーツァ(エカチェリーナ)を讃える一方で、その臣下である詩人自身の怠惰で、俗物的な日常を、諧謔をこめて、正直に描く。高い理想と、卑近な現実が、一つの詩のなかで、共存する。この荘重さと親しみやすさの混合が、当時としては、画期的だった。
生と死、そして、その儚さも、繰り返しの主題である。「神」は、宇宙の壮大さと、そのなかの人間の卑小さと偉大さを、荘厳に歌った頌詩である。人間は、無であり、同時に、神である、という逆説が、壮大なスケールで詠まれる。この詩は、各国語に訳され、広く知られた。
晩年の「時の流れ」は、死の数日前に書かれた、絶筆である。時の流れが、人間のあらゆる業績を、押し流していく、という無常が、断片のまま歌われる。すべては忘却の淵に沈む、という認識が、静かに刻まれている。
言葉は、力強く、時に破格である。規則にとらわれず、生き生きとした、感覚的な言葉を用いた。この自由さが、その詩に、独特の生命力を与えている。
作品
「フェリーツァ」(1782年)は、代表作である。女帝を讃えつつ、詩人自身の日常を諧謔的に描く、新しい型の頌詩にあたる。
「神」(1784年)は、宇宙と人間を主題にした、荘厳な頌詩である。各国語に訳された。
「エカチェリーナの死に寄せて」など、多くの頌詩がある。
「滝」は、寵臣ポチョムキンの死を悼みつつ、権力の栄華の儚さを歌った、長編の詩である。
「時の流れ」(1816年)は、絶筆となった断片である。
日本語では詩の抄訳がある。
文学史における立ち位置と影響
デルジャーヴィンは、18世紀ロシア最大の詩人とされる。プーシキン以前のロシア詩の頂点に立つ。
頌詩の形式を、内側から変えた功績が大きい。ロモノーソフが確立した格式ばった頌詩に、個人の声、日常の実感、諧謔を持ち込んだ。この改革によって、ロシア詩は、抽象的な理念を歌うものから、生きた人間の声を伝えるものへと、一歩を進めた。この方向は、プーシキンによって、完成される。
プーシキンへの継承は、その位置を象徴している。晩年、少年プーシキンの才能を認めて祝福したという逸話は、ロシア詩の世代を超えた継承の物語として、語り継がれてきた。プーシキン自身、デルジャーヴィンを、深く尊敬していた。デルジャーヴィンは、18世紀の古典主義と、19世紀の黄金時代とを、つなぐ位置にいる。
その率直で、力強い言葉は、後の詩人たちに、規則にとらわれない詩の可能性を示した。荘重さと親しみやすさを、一つの詩のなかで両立させる方法は、独自の達成だった。
政治家でありながら、権力の儚さを歌った点も、その特徴である。権力の中枢にいた者として、その栄華が、時の流れのなかで、いかにたやすく消えるかを、実感をもって詠んだ。
日本での受容は限られてきたが、プーシキンへの道を開いた詩人として、ロシア文学史のなかで位置づけられている。