イーゴリ軍記

作者
作者不詳
成立
12世紀
ロシア
時代
近代以前

概要

12世紀末に成立したとされる、古東スラヴ語による韻文的な物語である。正式には「イーゴリ遠征物語」と訳される。分量は短く、日本語訳で数十ページに収まる。

内容は、1185年に実際に起きた出来事にもとづく。ノヴゴロド=セヴェルスキイ公イーゴリが、南方の草原の遊牧民ポロヴェツ人(クマン人)に対して遠征を行い、大敗して捕虜になり、脱走して帰還するまでを語る。

通常の軍記とは異なり、勝利ではなく敗北を扱う。イーゴリの遠征は無謀で、諸公の不和が招いた敗北として描かれる。物語は繰り返し、ルーシの諸公が団結しないことを嘆く。当時、キエフ・ルーシは多くの公国に分裂し、内紛を続けていた。分裂への嘆きが、この作品の底に流れる主題である。

文体は独特で、散文とも韻文ともつかない。自然が人間の運命に感応し、鳥獣が語り、日食が凶兆として現れる。キリスト教以前の異教的な世界観が色濃く残る。

成立をめぐる状況が、この作品を特殊なものにしている。

写本は一つしか存在しなかった。18世紀末、好古家のムーシン=プーシキンが、修道院の写本集の中からこの作品を発見した。16世紀の写しとみられるものだった。1800年に活字化されて刊行される。

ところが1812年、ナポレオンのモスクワ侵攻の際の大火で、原写本は焼失した。 残ったのは、刊行された印刷版と、エカチェリーナ二世のために作られた写しだけである。

原本が失われたことで、真贋の論争が起きた。18世紀の偽作ではないか、という疑いである。当時、ヨーロッパでは古い叙事詩の偽作が流行しており(スコットランドの「オシアン」など)、この作品もその類ではないかと疑われた。言語学的な検証が長く続けられ、20世紀には言語学者ヤコブソンが真作説を強力に主張した。近年は、後に発見された別の中世作品との語句の一致などから、12世紀の真作とする見方が優勢だが、決着したとは言えない。

作者は不明である。イーゴリの遠征に近い立場の人物、あるいは宮廷に仕えた者と推測されるが、確証はない。

文学史における評価と影響

ロシア文学における古典中の古典とされる。キエフ・ルーシ時代の文学作品で、これほどまとまった芸術的な達成を示すものは他にない。ロシアの学校教育では必修の古典であり、国民的な作品として扱われる。

ただし、この作品を「ロシア文学」の起点とすることには注意が要る。成立当時、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは未分化のキエフ・ルーシであり、この作品はその共通の遺産にあたる。舞台となる地はウクライナの領域に重なる。ロシア・ウクライナ双方が自国の文化的起源として位置づけており、その帰属は現在も政治的な意味を帯びる。

主題としての「分裂への嘆き」は、その後のロシア・ウクライナ史を通じて繰り返し参照されてきた。諸公の不和を嘆き団結を訴える構造は、後世、統一の正当化にも用いられた。

芸術的には、自然と人間の交感、異教的な形象、リズミカルな語りが評価される。「ヤロスラーヴナの嘆き」は、ロシア詩の伝統の中で繰り返し引用され、翻案されてきた。

後世への影響は広い。19世紀にはボロディンがこの物語をもとにオペラ『イーゴリ公』を作曲した。その中の「ダッタン人の踊り」は独立して広く演奏される。数多くの詩人がこの作品を現代語に訳し、翻案している。

日本でも訳が読める。短く、注釈とともに読むことが前提になる。

あらすじ

物語は、語り手が、どのように歌うべきかを思案するところから始まる。古い吟遊詩人ボヤーンの華麗な様式に触れつつ、自分は事実に即して語ると述べる。

イーゴリ公が遠征に出る。出発にあたって日食が起こり、暗い前兆が示される。それでもイーゴリは、名誉を求めて進軍を止めない。弟のフセヴォロドと合流し、草原へ入る。

最初の戦いでは勝利し、ポロヴェツ人の陣営から財宝と娘たちを奪う。だが翌日、敵の大軍に包囲される。三日にわたる激戦の末、ルーシ軍は壊滅する。イーゴリは捕らえられる。

語りは、キエフ大公スヴャトスラフの場面に移る。大公は不吉な夢を見る。その意味を家臣が説くと、イーゴリの敗北の知らせが届く。大公は「黄金の言葉」と呼ばれる嘆きを語る。イーゴリとフセヴォロドの勇気は認めるが、その功名心が軽率だったこと、そして諸公が力を合わせないことを嘆く。語り手は、ルーシ各地の公を名指しで呼びかけ、団結して草原の敵に当たるよう訴える。

場面は、イーゴリの妻ヤロスラーヴナに移る。「ヤロスラーヴナの嘆き」と呼ばれる一節で、この作品の中でも最も知られた部分である。ヤロスラーヴナは城壁の上で、風に、川に、太陽に呼びかける。なぜ夫の軍に災いをもたらしたのか、なぜ夫を敵地に置き去りにするのかと問う。自然への呼びかけの形で、夫の身を案じる。

その祈りが通じたかのように、イーゴリは捕囚から脱出する。自然が味方する。川が道を示し、鳥が沈黙して追手に気づかせない。イーゴリは馬を乗り継ぎ、ルーシの地に帰り着く。物語は、公の帰還を祝う言葉で閉じられる。

登場する文学史