小林秀雄
- 原綴
- Kobayashi Hideo
- 生没
- 1902–1983
- 出身
- 東京市神田区(現・東京都千代田区)
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
生涯
1902年、東京の宝石商の家に生まれた。東京帝国大学でフランス文学を学び、在学中からランボーやボードレールに傾倒した。
学生時代、詩人中原中也の同棲相手だった長谷川泰子と暮らすようになる。中也とは絶交せず、生涯にわたって複雑な関係を続けた。この三角関係は、三人それぞれの仕事に長く影を落としている。
1929年、評論様々なる意匠が雑誌『改造』の懸賞に入選し、批評家として出発した。以後、文芸誌の中心で書き続ける。戦時中は文学者の団体に関わり、日本の古典を論じる文章を書いた。この時期の言動は、戦後に責任を問われることになる。
戦後も旺盛に書き、対象は文学から絵画、音楽、日本の古典へと広がった。1977年、10年以上を費やした大著本居宣長を刊行する。1983年、80歳で死去した。
作風
小林は、批評家が対象と格闘する過程そのものを文章にした。それ以前の批評は、作品の紹介・解説・道徳的な評価が中心だった。小林の批評は、対象を説明するのではなく、対象に触れた自分の認識が変わっていく道筋を書く。批評が独立した読み物として成立するのは、この書き方による。
デビュー作様々なる意匠(1929年)では、当時対立していたプロレタリア文学と新感覚派の双方を「意匠(デザイン)」として相対化した。どの主義も一つの装いにすぎず、そこを通り抜けたところに個人の生きた実感がある、という趣旨である。主義主張の対立の外に立つ位置を、批評の側から確保した文章として読まれてきた。
論じた対象は文学に限らない。ドストエフスキーを長く論じ続け、ランボーの翻訳と紹介では日本における受容の中心にいた。『近代絵画』でセザンヌやゴッホを扱い、無常という事では日本の中世を論じ、最後は本居宣長に向かった。専門の枠を作らず、対象に入り込んで書く姿勢が一貫している。
文体は断定的で、論証の手続きを省く。詩的な喚起力で読ませる書き方であり、この点は当初から批判もある。学問的な論文の基準では検証しにくいためである。
作品
様々なる意匠(1929年)
デビュー評論である。
私小説論(1935年)
日本文学の中心にあった私小説という形式を正面から問題にした。論点は、「私」が社会から切り離されていることにある。ヨーロッパの作家が社会のなかで自分を捉えるのに対し、日本の私小説の「私」は文壇という狭い世界のなかで完結している、という指摘である。ここで使われた「社会化された私」という語は、日本文学が近代的な個人をどう扱ったかをめぐる、以後の議論の基準になった。
無常という事(1946年)
日本の古典と歴史をめぐる連作である。
ドストエフスキイの生活(1939年)
伝記の形をとりながら作家の内面に迫る評伝である。
本居宣長(1977年)
10年以上をかけた最後の大著である。
文学史における立ち位置と影響
小林は、日本の文芸批評を独立した文学の一形式にした。批評が作品に付随する解説ではなく、それ自体として読まれるものになったのは、この人以降である。以後の批評家は、賛同するにせよ反発するにせよ、この水準を前提に書くことになった。
私小説論の影響もとくに大きい。田山花袋以来の私小説が日本文学の主流であり続けたこと、その「私」が社会から切れていることを、最も明確に論じた文章として参照され続けている。
戦時中の言動をめぐる問題は残る。戦後に責任を問われた際の「利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。僕は馬鹿だから反省なぞしない」という趣旨の発言は、繰り返し引用され、批判の対象になってきた。それでも、日本語で批評を書くという行為の水準を決めた人物であるという評価は動いていない。