脂肪の塊

原題
Boule de suif
作者
ギ・ド・モーパッサン
成立
1880
フランス
時代
19世紀

概要

五十ページほどの短篇である。登場人物は十人、舞台は一台の馬車と一軒の宿、期間は数日。 それだけの条件で、人間の偽善を段階を追って暴き切る。

1870年、普仏戦争下のルーアン。プロイセン軍に占領された町から、十人が一台の乗合馬車で脱出しようとする。ぶどう酒の卸売商の夫妻、工場主の夫妻、伯爵夫妻、二人の修道女、共和主義者を自称する男、そして「脂肪の塊」と渾名される娼婦。

道中、九人はこの娼婦を蔑む。だが食料を持っていたのは娼婦だけで、空腹になると全員がその施しを受ける。宿場でプロイセン将校が娼婦を要求すると、今度は全員があらゆる理屈を並べて応じるよう迫る。修道女までが、動機が正しければ行いは神に許される、と説く。 そして用が済むと、また蔑む。

この一行のなかで、占領者に実際に抗ったのは娼婦だけである。大声で愛国を語る男は何もしない。社会的な評価と実際の徳が正反対に置かれている。

モーパッサン三十歳の作品で、これが出世作にあたる。ゾラを中心とする若い作家たちの共同短篇集『メダンの夕べ』に収められて発表された。この一篇の評価が他を圧倒したため、同じ本に入った他の作品はほとんど忘れられている。

素材は自分の体験である。モーパッサンは普仏戦争に従軍しており、占領下のルーアンも、避難する人々も、実際に見ていた。

文体はフロベールの指導によって作られている。母がフロベールの旧友だった縁で若い頃から見てもらい、「ぴったりの一語」を探すこと、凡庸な表現を許さないことを叩き込まれた。フロベールはこの作品を読んで、これは残る、という趣旨の賛辞を送った。その翌年に死んでいる。

文学史における評価と影響

フランス短篇小説の代表作の一つとされ、短篇の構成の教科書として繰り返し分析されてきた。

達成はまず構成にある。蔑む→施しを受ける→親しむ→説得する→用が済めばまた蔑む。この往復が、一行の無駄もなく配置されている。 同じ人物たちが同じ場所で態度だけを反転させるので、変わったのが状況ではなく人間の側だと分かる仕組みになっている。

主題は偽善の暴露である。貴族、ブルジョワ、聖職者、共和主義者。社会のあらゆる層が、それぞれの語彙で同じ卑劣さを行う。とりわけ修道女による説得が痛烈にあたる。宗教的な権威が、最も汚れた要求を正当化する側に回る。

結末の口笛は、この作品で最も名高い細部である。すすり泣きに重なる「ラ・マルセイエーズ」。説明も論評も加えられず、ただその事実が置かれる。この抑制が批判をいっそう鋭くしている。 フロベールから受け継いだ、作者が語らないという姿勢がここに貫かれている。

日本への影響も大きい。モーパッサンは明治期に盛んに訳され、簡潔な文体、日常のうちの残酷、説明しない結末という三点が、日本の短篇小説の書き方に取り込まれた。

あらすじ

1870年、冬。プロイセン軍に占領されたルーアン。十人が通行証を得て、一台の乗合馬車でル・アーヴルへ向かおうとする。

乗客はこうである。ぶどう酒の卸売商ロワゾー夫妻——けちで抜け目がない。工場主カレ=ラマドン夫妻——名望家で体面を重んじる。ユベール・ド・ブレヴィル伯爵夫妻——古い家柄の貴族。二人の修道女。コルニュデ——民主主義者を自称し、大声で愛国を語る男。そして「脂肪の塊」と渾名される娼婦エリザベート・ルーセ

出発は早朝。だが雪の道は進まない。昼を過ぎ、誰もが空腹になる。誰も食料を用意していない。

そのとき「脂肪の塊」が大きな籠を取り出す。鶏、パテ、果物、ぶどう酒。それを一行に勧める。さきほどまであからさまに蔑んでいた人々が、次々に手を伸ばす。 食べながら、婦人たちはこの娼婦に話しかけ、親しげに振る舞い始める。

道中、「脂肪の塊」は自分がなぜルーアンを離れるのかを語る。プロイセン兵に乱暴されそうになり、思わずその首を絞めようとしたからである。

夜、一行はトートの宿場に着く。そこにはプロイセンの将校が駐留している。将校は通行証を預かったまま出発を許さない。理由は一つ。「脂肪の塊」が自分と寝ることを承知するまで、である。

「脂肪の塊」は断固として拒む。敵に身を任せることなどできない。

最初、一行はこの拒絶に同調する。将校の要求は卑劣だと憤る。だが日が経つにつれて態度が変わる。 出発できないことに苛立ち、商用の遅れを心配し、次第に「脂肪の塊」の頑固さを責め始める。

そして説得が始まる。伯爵夫人は優しく諭す。工場主の妻は体面を説く。そして修道女までもが加わる。動機が正しければ行いは神に許される、目的が善であれば手段は問われない、と語り、歴史上の聖女の例まで持ち出す。神の名において、娼婦は身を売るよう説得される。

ついに「脂肪の塊」は折れ、その夜、将校のもとへ行く。

翌朝、通行証が返され、馬車は出発する。

そして馬車の中で態度は一変する。誰も「脂肪の塊」に話しかけない。婦人たちは身を離し、汚らわしいものを見る目を向ける。

昼になる。今度は一行がそれぞれ食料を用意していた。「脂肪の塊」だけが、慌てて出てきたために何も持っていない。 誰一人分けようとしない。目の前で人々は食べ、談笑する。

「脂肪の塊」は声を殺して泣き始める。そのすすり泣きが暗い馬車の中に響く。そしてコルニュデが、口笛で「ラ・マルセイエーズ」を吹き始める。 愛国の歌が皮肉に鳴り続けるなかで、物語は閉じられる。

作者

登場する文学史