オルラ
- 原題
- Le Horla
- 作者
- ギ・ド・モーパッサン
- 成立
- 1887
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
概要
1887年に刊行された短篇小説である。前年の1886年に、同じ題で別の形の短い版が発表されており、それを日記形式に書き改めたものにあたる。現在ふつうに読まれるのは1887年の版である。
形式は日記である。ノルマンディーのセーヌ河畔に住む、裕福な独身の男が、五月から九月にかけての記録をつける。
書き出しは平穏で、庭から川を眺める記述から始まる。そこから少しずつ変わっていく。熱、不眠、理由の分からない不安。やがて、夜のあいだに水差しの水が飲まれていることに気づく。目の前で薔薇の枝が折られ、花が宙に浮いて消える。
書き手はその存在に名を与える。オルラ。作者の造語で、フランス語の hors(外)と là(そこ)を合わせた形と説明されることが多い。
読み方は二つに分かれる。未知の存在が実際に来たと読むか、書き手の精神が壊れていく記録と読むか。作品はどちらとも決めない。
モーパッサンは1880年の脂肪の塊で世に出てから、十年ほどで三百篇ほどの短篇を書いた。多くは新聞と雑誌に発表され、後に短篇集にまとめられている。
この作品が書かれた時期の背景に、催眠術と暗示の研究がある。1880年代のフランスでは、シャルコーがサルペトリエール病院で催眠を使った実験を公開しており、医学界の外でも話題になっていた。人間の意志が外から操作されうるという認識は、当時新しい衝撃だった。作中の催眠術の場面はこれを踏まえている。
モーパッサンは若いころ梅毒に感染していた。当時、有効な治療法はない。進行すると脳を侵し、精神に異常をきたす。1880年代半ばから、頭痛、視力の障害、幻覚に悩まされている。
この作品の発表から五年後の1892年1月、モーパッサンは自分の喉を切って自殺を図った。一命は取りとめたが精神病院に収容され、翌1893年に死去した。四十二歳だった。
文学史における評価と影響
両義性が保たれている点が、この作品の要にあたる。オルラが実在するのか、書き手の幻覚かは決まらない。水が消える、薔薇が折れる、鏡に映らない——これらはすべて書き手の日記の中にしか存在せず、外から確かめる手立てがない。
日記という形式がその構造を支えている。読者は書き手の視点にしか立てない。狂っているかどうかを判断する外部の基準がない。
姿を持たない怪異という着想も新しかった。それまでの怪奇小説は幽霊や怪物を描いた。オルラには姿がなく、存在の証拠は消えた水と折れた薔薇だけである。この扱いは20世紀の恐怖小説に受け継がれた。
自己の喪失という主題も含まれる。書き手は自分の意志が外から奪われつつあると感じ、鏡に自分が映らなくなる。
作者の生涯との重なりは、この作品の読まれ方に影響し続けている。書かれた恐怖が、その後作者自身に起きた。ただし、それを伝記的な事実に還元して読むことへの警戒も、繰り返し表明されている。作品自体は病状の記録ではなく、催眠術という同時代の主題を扱った構成物として書かれている。
同じモーパッサンでも、脂肪の塊や首飾りとはまったく違う面を示す。幻想を扱った短篇は他にもあり、この作品はその代表にあたる。
あらすじ
5月8日。晴れた朝。書き手は庭から川を眺めている。ルーアンから来たブラジル船籍の三本マストの船が通る。書き手は美しいと思い、手を振る。
5月12日。数日前から熱がある。憂鬱で、理由の分からない不安がある。
5月16日。病んでいる。夜、眠ろうとすると、誰かが近づいてくる感じがする。眠りに落ちると、何かが胸にのしかかり、喉を絞める。目覚めると誰もいない。
医師の勧めで旅に出る。モン・サン=ミシェルを訪ねる。修道士と話す。目に見えないから存在しない、と言えるか。風は見えないが家を倒す。人間の目が見ているのは、存在するもののごく一部にすぎない。
帰宅すると症状が戻る。そして決定的な出来事が起きる。
寝る前に、水差しに水を満たし、その脇にぶどう酒、牛乳、パン、いちごを置く。朝、水と牛乳だけがなくなっている。書き手は実験を繰り返す。水差しを白い布で包み、封をし、糸で縛る。それでも水は消える。
庭で、目の前の薔薇の枝がひとりでに曲がり、花が折られ、宙に持ち上げられて消える。見えない手が摘んだ。
パリへ行く。人と会い、社交にまぎれると症状は消える。気のせいだったのか。だがそこで催眠術の実演を見る。従妹が術にかかり、命じられた通りに行動し、翌日その記憶を失っている。人間の意志は外から操作されうる。
帰宅すると症状が戻る。書き手は確信する。何かが自分に取り憑いている。それは水を飲み、薔薇を摘み、自分の意志を少しずつ奪っている。自分はもう自分の主人ではない。
新聞に、ブラジルのサンパウロ州で奇妙な流行が起きているという記事を見つける。人々が目に見えない何かに取り憑かれ、正気を失っているという。書き手は5月8日に手を振ったブラジル船を思い出す。あの船が運んできた。
ある夜、書き手は鏡の前に立つ。自分の姿が映っていない。鏡と自分のあいだに何かが立って光を遮っている。やがて霧が晴れるように、少しずつ自分の姿が戻ってくる。
書き手は殺すことを決める。部屋に鉄の鎧戸と頑丈な扉を取り付ける。ある夜、オルラが部屋にいることを確かめ、外へ飛び出して扉を閉め、施錠する。そして家に火を放つ。
家は燃え上がる。だが書き手は、使用人たちを逃がすことを忘れていた。四人が炎の中で焼け死ぬ。
燃える家を見ながら書き手は考える。オルラは死んだのか。人間のように火で死ぬとは限らない。あれは人間ではないのだから。
最後の一行。あれが死んでいないのなら、自分を殺すしかない。