ベラミ
- 原題
- Bel-Ami
- 作者
- ギ・ド・モーパッサン
- 成立
- 1885
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
概要
1885年に刊行された長篇小説である。前年から新聞に連載された。
主人公ジョルジュ・デュロワは、ノルマンディーの農家の息子で、アルジェリアで兵役を終えて除隊し、パリで鉄道会社の下級事務員をしている。持っているのは容姿だけで、教養も財産も後ろ盾もない。
物語は、この男が新聞社に入り、記事を書けないまま記者になり、女たちを使って地位を上げ、最後に大新聞社主の娘と結婚するまでを追う。
背景は1880年代前半のパリである。新聞が政治と株の情報を握り、それを使って人が動く状況が具体的に書かれる。作中で扱われる北アフリカの利権をめぐる事件は、当時のチュニジア進出を下敷きにしている。
モーパッサンは1880年の脂肪の塊で世に出た後、新聞への寄稿で生計を立てていた。『ル・ゴーロワ』『ジル・ブラース』といった紙に、短篇と時評を書いている。作中の新聞社の描写は、この経験による。
背景の政治も同時代である。1881年、フランスはチュニジアを保護領にした。この過程で、事前に情報を得た者が国債で利益を得たという話が流布していた。作中のモロッコ国債の挿話はこれを下敷きにしている。
刊行時、新聞界から反発が出た。記者を無能で腐敗した存在として描いているという批判である。モーパッサンは新聞に反論を書き、自分が描いたのは新聞界全体ではなく、その一部の粗悪な紙だと述べた。
作品は売れた。刊行の年に版を重ねている。
文学史における評価と影響
上昇の物語として、19世紀の系譜に置かれる。赤と黒のジュリヤンやゴリオ爺さんのラスチニャックと並べられることが多い。
違いは、主人公に内面がないことにある。ジュリヤンには野心とともに矜持と苦悩があり、ラスチニャックには迷いがある。デュロワにはそれがない。恥じるのは金がないときだけで、手段について考えることがない。
女性の使われ方も一貫している。デュロワが上がる段階には、必ず女がいる。ド・マレル夫人は金を、マドレーヌは記事と人脈を、ヴァルテール夫人は社内の地位を、シュザンヌは財産をもたらす。デュロワ自身は何も生まない。
マドレーヌの位置は、この作品で最も議論される。実際に記事を書き、政治を読み、人を動かしているのはマドレーヌだが、署名も地位も夫のものになる。当時の法では、既婚女性は自分の名前で活動する道が限られていた。フォレスチエもデュロワも、同じ女の能力で立っている。
結末に罰がない点も指摘される。デュロワは何も失わず、次の段階を見ている。19世紀の小説で、上昇を目指した人物は多く破滅するが、この作品はそうしない。
映画化が繰り返されている。
あらすじ
1880年6月、パリ。デュロワは月給を使い果たし、残り三フランで街を歩いている。
偶然、兵役時代の同僚フォレスチエに会う。フォレスチエは新聞『ラ・ヴィ・フランセーズ』の政治部にいる。デュロワは夕食に招かれる。
その席で、社主ヴァルテール夫妻、フォレスチエの妻マドレーヌ、そしてド・マレル夫人と知り合う。デュロワは新聞社に職を得る。
だが記事が書けない。最初の記事は、マドレーヌが口述したものをそのまま書き取っただけである。以後も、記事の中身は他人から出る。
デュロワはド・マレル夫人の愛人になる。夫人はデュロワに金を渡す。娘のロリーヌが、デュロワを「ベラミ」——いい男、の意——と呼び、この渾名が広まる。
社主の妻ヴァルテール夫人にも近づく。
フォレスチエが結核で死ぬ。デュロワは、その妻マドレーヌに求婚する。マドレーヌは、対等な立場でなら、という条件で承知する。二人は結婚する。
マドレーヌは政治と社交に通じており、記事を書き、人脈を動かす。デュロワの署名で出る記事は、実際にはマドレーヌが書いている。フォレスチエの記事も同じだった。
デュロワは自分の名を「デュ・ロワ・ド・カンテル」と貴族風に改める。
ヴァルテール夫人を口説き落とす。夫人は本気になり、後に厄介な存在になる。
社主ヴァルテールは、政界の情報を先に得て、モロッコ関連の国債で巨額の利益を上げる。マドレーヌの旧知の議員から情報が流れていた。デュロワはその分け前に与れず、憤る。
マドレーヌに、外務大臣ラロシュ=マチューとの関係があると知ったデュロワは、警察を連れて現場を押さえ、離婚する。当時の法では、姦通の現行犯を押さえれば離婚が成立し、財産の分与も有利になる。
デュロワは次に、社主の娘シュザンヌを狙う。誘い出して駆け落ちの形を作り、既成事実にする。社主は反対するが、応じるほかなくなる。
結婚式はマドレーヌ教会で行われる。参列者に大臣がいる。式の途中、デュロワはド・マレル夫人の姿を見つける。関係は続けるつもりでいる。
教会を出るとき、デュロワは階段の上から下院の議事堂を見下ろす。次はそこだ、と考える。作品はこの場面で終わる。