韓愈
- 原綴
- 韓愈
- 生没
- 768–824
- 出身
- 河南省孟州
- 国
- 中国
- 時代
- 唐宋
生涯
768年、河南省に生まれた。三歳で父を失い、兄の家で育てられた。その兄も早くに死に、兄嫁のもとで貧しく育っている。
科挙には四度落第し、792年、二十五歳でようやく及第した。さらに官職を得るための試験にも三度落ちており、実際に任官したのは三十歳近くになってからである。この苦労が、後の文章に一貫する切迫した調子の背景にある。
官界では直言によって二度、大きく失脚した。
一度目は803年である。飢饉に際して減税を上奏し、地方へ左遷された。
二度目は819年、より深刻な形で起きた。憲宗皇帝が仏舎利を宮中に迎え入れようとしたとき、韓愈は「論仏骨表」を提出してこれに反対した。仏教は外来の教えであり、それを崇めた王朝はいずれも短命だった、という趣旨である。皇帝は激怒し、死罪を主張した。取りなしによって減じられ、潮州(現在の広東省)へ流された。当時、大陸南端の未開の地とされた場所である。
潮州では、鰐が人畜を害するとして、鰐に立ち退きを命じる文章を書いて川に投じたと伝えられる。教育の整備にも努め、この地では今も敬われている。
翌年に赦されて中央へ戻り、要職に就いた。824年、五十六歳で死去した。
作風
韓愈が主張したのは、文章を古代の形に戻すことである。
当時の公的な文章は駢文だった。四字と六字の句を対にして並べ、典故を散りばめ、音の調子を整える。形式が優先され、内容が犠牲になる。韓愈はこれを批判し、先秦から漢にかけての散文——史記や孟子の文章——を規範とすべきだと説いた。これを古文運動という。
その主張の核は、形式の問題にとどまらない。文章は道を載せるものだ、という考えである。儒教の思想を伝えるための手段として文章があり、そのためには内容が形式に従属してはならない。
同時に、「陳言を務め去る」ことも説いた。使い古された言い回しを排し、自分の言葉で書く、という主張である。この二つ——古代に帰ることと、新しく書くこと——は矛盾するように見えるが、韓愈にとっては同じことだった。型を真似るのではなく、古代の文章が持っていた自由さを取り戻す、という意味になる。
実際の文章は、論理が明快で、勢いがある。「師説」では、師に学ぶことを恥じる当時の風潮を批判し、道のあるところに師がある、と説く。「送孟東野序」は、物が平静を失えば鳴る、という一句から始めて、不遇な者こそがよく書くという論に展開する。
詩も書いており、こちらは奇異な語彙と表現を好んだ。読みにくさをいとわず、通常は詩に使わない散文的な構文を持ち込む。この方向は「以文為詩」(散文をもって詩と為す)と呼ばれ、賛否が分かれた。
儒教の擁護者としての側面も強い。仏教と道教が広がった唐代にあって、儒教の正統性を主張し、その系譜を整理した。
作品
「論仏骨表」(819年)は、仏舎利の迎え入れに反対した上奏文である。流罪の原因になった。
「師説」は、師について学ぶことの意味を論じた文章である。
「原道」は、儒教の道を論じた思想的な文章にあたる。仏教と道教への批判を含む。
「送孟東野序」「進学解」なども代表的な散文である。
「祭十二郎文」は、若くして死んだ甥を悼む祭文である。形式的な追悼文ではなく、悲嘆をそのまま書いた文章として、中国散文の名品に数えられる。
詩では「山石」「南山詩」などが知られる。
日本語では散文の抄訳がある。文章そのものが主題である作家なので、訓読との対照で読む意味が大きい。
文学史における立ち位置と影響
韓愈は、唐宋八大家の筆頭に置かれる。古文運動によって、中国の散文の方向を決定的に変えた。
その影響は当代では限定的だった。駢文の優勢は続き、古文が主流になるのは宋代に入ってからである。欧陽脩がこの運動を再び掲げ、蘇軾の代で完成した。以後、清末に至るまで、散文の規範は韓愈が示した方向にある。
規範として据えられたのが史記である。司馬遷の簡潔で力のある文体を手本とする見方は、この運動によって確立した。
儒教の思想史における位置も大きい。仏教と道教に対して儒教の系譜を主張したことは、宋代の朱子学へつながる流れの起点とされる。
「文以載道」——文章は道を載せる——という考え方は、以後の東アジアの文章観を規定した。文学が思想の道具であるべきかという問いは、この主張への賛否として繰り返し論じられている。
日本では、漢文教育を通じて広く読まれた。「師説」は教科書の定番であり、松尾芭蕉をはじめとする近世の文人も韓愈の文章に親しんでいる。魯迅は、古文の規範としての韓愈を批判の対象にした。白話文学運動が乗り越えようとしたのが、この系譜だったためである。