王維

原綴
王維
生没
701頃–761
出身
蒲州(現・山西省運城)
中国
時代
唐宋

生涯

701年頃、山西省の官僚の家に生まれた。母は熱心な仏教徒で、その影響を生涯受けている。維という名と摩詰という字は、あわせて仏典の維摩詰に由来する。

若くして詩と音楽と絵の才を知られ、貴族の邸に出入りした。721年、二十歳ほどで科挙に及第する。だが宮廷の楽官として仕えた際、規定に反する舞を許したとして地方へ左遷された。

その後、中央に戻って官職を重ねた。この間に妻を亡くし、以後再婚していない。

四十歳前後から、長安の南にある藍田の輞川に別荘を構えた。もとは詩人宋之問の別荘だった土地である。官職に就きながら、休暇のたびにここへ戻るという生活を続けた。完全な隠遁ではなく、官と隠のあいだに身を置く形をとっている。

755年、安史の乱が起きた。長安が陥落し、王維は脱出できずに捕らえられる。反乱軍の政権で官職に就くことを強いられた。薬を飲んで病を装い、拒もうとしたが果たせていない。

乱の平定後、この経歴は罪に問われた。だが捕囚中に、玄宗の離宮で反乱軍が宴を開いたことを嘆く詩を書いており、それが証拠として提出された。弟の嘆願もあり、罪は減じられる。最終的に尚書右丞という高位に至った。

761年、六十歳ほどで死去した。死の直前、親族と友人に別れの手紙を書いたと伝えられる。

作風

王維の詩は、人の気配を消したところに成立する。

自然が描かれるが、その自然に感情を託さない。空の山に人は見えず、ただ人語の響きが聞こえる。夕日の光が深い林に射し込み、苔の上を照らす。事物だけが置かれ、そこに詩人がどう感じたかは書かれない。

この方法が、山水詩と呼ばれる型を作った。同時代の李白が誇張と想像で書き、杜甫が社会の現実を書いたのに対し、王維は見えているものだけを静かに置く。

短い形式を得意とした。五言絶句という二十字の形式で、場面を一つだけ提示して終わる。「鹿柴」「竹里館」「鳥鳴澗」といった作品は、いずれも数行で完結する。説明も結論もない。

仏教の影響が根底にある。禅の考え方——事物をそのまま受け取り、自我を差し挟まない——が、この書き方と対応していると論じられてきた。「詩仏」という呼び名はここから来る。

絵画との関係も深い。王維は当時を代表する画家でもあった。水墨による山水画を発展させた人物とされる。詩と絵を別の技術と見なさず、同じ対象への二つの接近として扱った。

若い頃には別の面もある。辺境の戦地を歌った詩や、友人との別れを歌った詩があり、こちらは平明で情の濃いものが多い。「元二の安西に使いするを送る」は、別れの席で酒をもう一杯すすめる詩で、送別の歌として広く歌われた。

作品

「輞川集」二十首は、別荘の周囲の二十の場所を、それぞれ五言絶句で歌った連作である。友人の裴迪が同じ題で唱和した詩も併せて伝わる。「鹿柴」「竹里館」を含む。

「山居秋暝」は、雨上がりの秋の山の夕暮れを歌った五言律詩である。

「元二の安西に使いするを送る」は送別の詩で、後に「陽関三畳」として歌曲になった。

「九月九日山東の兄弟を憶う」は、異郷にあって故郷の兄弟を思う詩である。異郷にあって異客となる、という一句がよく知られる。

「凝碧池」は、捕囚中に書かれた詩で、後に罪を減じる材料になった。

日本語ではアンソロジーで代表作から入るのが現実的である。詩が短く、訓読でも意味を追いやすい。

文学史における立ち位置と影響

王維は、李白杜甫と並んで盛唐を代表する詩人とされる。三人はそれぞれ詩仙・詩聖・詩仏と呼ばれる。

山水詩の確立という点で位置づけられる。自然を単なる背景ではなく、それ自体を詩の対象とする書き方は、陶淵明の田園詩を受け継ぎながら、より視覚的な方向へ進めたものにあたる。以後の中国詩の重要な系譜になった。

絵画史での位置も大きい。北宋の蘇軾は、王維の詩には絵があり、絵には詩がある、という趣旨の評を残した。この言葉が、詩と画を一体のものとして論じる伝統の出発点になっている。明代の董其昌は、王維を文人画の祖として位置づけた。

日本での受容も早い。平安期から漢詩の規範として読まれ、山水画の理念とともに受け入れられた。禅宗を通じた受容もあり、詩と絵と禅を結びつける考え方は、日本の水墨画と庭園の理論にも影響している。

近代以降、英語圏でも読まれるようになった。イメージだけを提示して説明しないという方法が、20世紀初頭のイマジズムの詩人たちに評価された経緯がある。

登場する文学史