李清照
- 原綴
- 李清照
- 生没
- 1084–1155頃
- 出身
- 済南(現・山東省)
- 国
- 中国
- 時代
- 唐宋
生涯
1084年、山東省済南の学者の家に生まれた。父の李格非は文章家で、母も詩を作る家柄だった。恵まれた教育を受け、若くして詩詞の才を知られている。
十八歳で趙明誠と結婚した。夫は金石学者で、古い青銅器や石碑の拓本を研究する学者である。二人は書画と骨董の収集を趣味とし、共通の関心のうえに築かれた結婚だった。この時期の生活は、後に李清照自身が回想の文章に書き残している。互いに詩を作り、収集した品を並べて楽しむ日々だった。
1127年、金の侵攻によって北宋が滅び、都が陥落した(靖康の変)。一家は江南へ逃れる。この避難のなかで、長年収集した書画骨董の大半を失った。
1129年、夫が任地へ向かう途上で病死した。李清照は戦乱と喪失のなかに一人残される。収集した品を守りながら、各地を転々とした。
一説には、四十九歳のとき再婚したが、相手が財産目当ての人物だったため、数か月で訴え出て離婚したという。当時、女性が夫を訴えることは自らも投獄される行為だったが、李清照はそれを選んだ。この再婚と離婚については、後世の創作とする説もあり、確定していない。
晩年は江南で孤独に暮らした。1155年頃、七十歳ほどで死去したとされる。
作風
李清照の詞は、平明な言葉で深い感情を歌う。
詞は、もともと宴席で歌われる歌の詞である。恋愛と別離を、繊細で優美な言葉で扱う。この様式を「婉約」といい、李清照はその代表とされる。同時代に蘇軾が始めた、歴史や思索を歌う「豪放」の方向とは対照的な位置にある。
言葉づかいの巧みさが際立つ。日常の口語に近い平易な語を選びながら、それを配置することで強い効果を生む。畳語(同じ音の繰り返し)を効果的に使う。「尋尋覓覓、冷冷清清、凄凄惨惨戚戚」——七組の畳語を連ねた「声声慢」の書き出しは、その技巧の頂点として知られる。探し求めても何もなく、冷え冷えと寂しく、悲しみが重なる、という状態が、意味と音の両方で示される。
前半生と後半生で調子が変わる。結婚生活の時期の詞は、夫との別離を歌うものでも、どこか明るさと若さがある。花を見て酔い、夫の帰りを待つ。だが北宋滅亡と夫の死の後、詞は暗く重くなる。同じ別離でも、取り返しのつかない喪失として歌われる。この落差が、李清照の作品の幅を作っている。
詞の理論も残した。「詞論」という短い文章で、詞は詩とは別の独立した文学であり、独自の規則を持つと主張した。蘇軾らが詞を詩のように書くことを、詞の本質を損なうものとして批判している。当時、女性がこうした批評を書くこと自体が異例だった。
散文にも優れた。「金石録後序」は、夫と過ごした日々と、その後の喪失を回想した文章で、宋代の散文の名品に数えられる。
作品
作品の多くは散逸した。今日伝わる詞は五十首ほどにとどまる。
「声声慢」は、後半生の代表作である。七組の畳語で始まり、秋の夕暮れの孤独を歌う。
「醉花陰」は、重陽の節句に夫を思う詞である。菊の香のなかで、人は花よりもやつれている、という結びが知られる。
「如夢令」二首は、前半生の作で、若々しい情景を歌う。
「一剪梅」「武陵春」なども広く読まれている。
「金石録後序」は散文で、夫との生活と喪失を回想する。
「詞論」は詞についての批評文である。
日本語では詞の抄訳がある。短いため、訓読と訳の対照で読める。
文学史における立ち位置と影響
李清照は、中国文学史で最も高く評価される女性詩人である。男性が圧倒的多数を占める中国の詩詞の伝統のなかで、その頂点の一人に数えられる例外的な存在にあたる。
宋詞の婉約派を代表する。蘇軾、辛棄疾らの豪放派と対をなす形で、繊細な感情表現の系譜を代表する位置に置かれる。
女性の経験を女性の側から書いた点でも重要である。別離、待つこと、喪失といった主題を、様式化された恋愛詞としてではなく、自分の生活の実感として歌った。この直接性が、後世の読者を惹きつけてきた。
「詞論」を書いたことは、批評史のうえでも意味を持つ。詞という形式の独立性を主張したこの文章は、当時の詞のあり方をめぐる議論に、女性の側から加わった数少ない例である。
後世、その生涯は物語化された。才能に恵まれ、幸福な結婚を送り、そして戦乱ですべてを失った女性という像が、繰り返し語られてきた。この像と実際の生涯との距離は、研究の対象になっている。
日本での受容も古い。宋詞への関心とともに読まれ、近代以降は、女性詩人の先駆として紹介されている。