欧陽脩

原綴
欧陽脩
生没
1007–1072
出身
綿州(現・四川省綿陽)
中国
時代
唐宋

生涯

1007年に生まれた。四歳で父を失い、家は貧しかった。母が葦の茎で地面に字を書いて教えたと伝えられる。書物を買えず、他家の本を借りて写して学んだ。

1030年、科挙に及第した。以後、官界に入り、地方と中央の職を歴任する。

政治的には、改革を志す一派に属した。范仲淹らの改革運動を支持し、そのために何度も左遷された。だが左遷先の地方でも善政を敷き、その地の文化を育てている。滁州に左遷されたときに書いた「酔翁亭記」は、その地の山水と、民とともに楽しむ境地を描いた名文として知られる。

晩年には、副宰相にあたる参知政事にまで昇った。だが新法をめぐって、後進である王安石と対立する。急進的な改革に反対し、やがて官を退いた。1072年、六十六歳で死去した。

科挙の試験官を務めたことも、その事績として重要である。1057年の科挙で、欧陽脩は当時流行していた難解で技巧的な文体を退け、簡潔で明快な文章を評価した。この試験によって、蘇軾をはじめとする後の大家が世に出ている。

作風

欧陽脩の中心にあるのは、古文の復興である。

唐代に韓愈が起こした古文運動は、その後、勢いを失っていた。宋初には、技巧的で難解な文体(西崑体)が流行する。欧陽脩は、韓愈の文章を規範として掲げ、簡潔で自然な散文を取り戻そうとした。

その主張は、韓愈とは調子が違う。韓愈の文章が力強く、時に晦渋であるのに対し、欧陽脩の文章は平明で、穏やかである。無理に古めかしくするのではなく、自然に流れる文章を理想とした。この平易さが、以後の宋代の散文の性格を決めた。

代表作「酔翁亭記」は、その文体をよく示す。滁州の山の亭で、民とともに宴を開く場面を描く。「酔翁の意は酒に在らず」——酔翁の本当の楽しみは酒そのものにあるのではなく、山水のあいだにある——という一句が知られる。二十一もの「也」の字を句末に繰り返す独特のリズムで、ゆったりとした境地を表現している。

詩と詞にも通じた。詞では、恋愛や別離を優美に歌う婉約の作を残している。政治家・文章家としての厳格な顔とは別の繊細な抒情の一面がそこにある。

歴史家としての仕事も大きい。『新唐書』『新五代史』の編纂に関わった。とくに『新五代史』は、欧陽脩が個人的に編んだ史書で、道徳的な評価を明確に打ち出している。

金石学(青銅器や石碑の銘文を研究する学問)の創始者の一人でもある。古い碑文の拓本を収集し、『集古録』にまとめた。これは、後の考証学の先駆にあたる。

作品

「酔翁亭記」は、滁州左遷時の代表作である。山水と、民と楽しむ境地を描く。

「秋声賦」は、秋の気配を通じて人生の衰えを思う、賦の名品である。

「朋党論」は、党派をめぐる政治的な論文にあたる。君子の党と小人の党を区別し、改革派の立場を弁護した。

『新五代史』

個人で編んだ歴史書である。

『集古録』

金石文の研究の先駆的な著作である。

詞集も残り、婉約の作が収められている。

日本語では散文の抄訳がある。「酔翁亭記」は漢文教材としても知られる。

文学史における立ち位置と影響

欧陽脩は、宋代の文化の中心にいた人物である。唐宋八大家の一人に数えられる。

古文運動を復興させた功績が最も大きい。韓愈が起こし、一度衰えたこの運動を再び軌道に乗せ、それを蘇軾の代の完成へと橋渡しした。宋代の散文が、簡潔で平明な方向に定まったのは、欧陽脩の力による。八大家のうち、宋の六人(欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石)は、いずれも欧陽脩と関わりを持つ。

後進を育てたことも、その位置を特徴づける。試験官として蘇軾を見出し、多くの人材を引き立てた。文壇の指導者として、次の世代を組織した。この点で、単に優れた作家であるだけでなく、時代の文化を導いた人物にあたる。

多方面にわたる仕事も特筆される。散文、詩、詞、歴史、金石学。それぞれの分野で第一級の業績を残した。この総合性は、宋代の士大夫の理想像を体現している。

新法をめぐって王安石と対立したことは、政治史の一項目である。同じ改革の志から出発しながら、その手段をめぐって世代が分かれた。

日本での受容は、漢文教育を通じて進んだ。「酔翁亭記」「秋声賦」は、日本の漢学の素養の一部をなしている。

登場する文学史