蘇軾

高い帽子をかぶり、杖を手にして立つ蘇軾を描いた淡彩の肖像画。
原綴
蘇軾
生没
1037–1101
出身
眉州眉山(現・四川省眉山)
中国
時代
唐宋

生涯

1037年、四川省眉山に生まれた。父の蘇洵、弟の蘇轍もともに文章家で、三人は「三蘇」と呼ばれる。

1057年、二十一歳で科挙に及第した。試験を統括した欧陽脩がその答案を絶賛し、以後、後ろ盾となる。この及第は当時の話題になった。

官界に入ったが、政争に巻き込まれ続けた。王安石が進めた新法をめぐって、蘇軾は反対の立場をとる。急激な改革が民を苦しめるという理由である。このため地方へ出され、杭州、密州、徐州、湖州の各地を転任した。

1079年、詩のなかで新法を誹謗したという嫌疑で逮捕された。「烏台詩案」と呼ばれる事件である。百日余りの投獄の後、死罪は免れ、黄州へ流された。

黄州での五年間が転機になる。俸給がなく、城東の荒れ地を開墾して自給した。この土地を「東坡」と呼び、自らの号とする。この時期に「赤壁賦」をはじめとする代表作が書かれた。

その後、旧法派が復権すると中央へ呼び戻され、要職に就いた。だが今度は旧法派の内部でも対立し、再び地方へ出る。

1094年、新法派が復権すると、さらに南の恵州へ流された。1097年には海南島へ流される。当時、大陸から隔絶した流刑地であり、事実上の死刑に近い扱いだった。それでも現地で学校を開き、島の子弟に学問を教えている。

1100年に赦免され、北へ戻る途上の1101年、常州で六十四歳で死去した。

作風

蘇軾は、詩・詞・散文・書・画のすべてで最高の水準に達した。

詩では、日常の題材を自在に扱う。食べ物、旅、友人、地方の風物。難解な典故を積み上げるのではなく、平明な言葉で書きながら、そこに考察を織り込む。宋詩の特徴とされる「議論を含む詩」の代表にあたる。

詞では、扱う範囲を大きく広げた。詞はもともと宴席で歌われる形式で、恋愛と別離が主な内容だった。蘇軾はそこへ、歴史への感慨、政治、哲学的な思索を持ち込んだ。「赤壁懐古」では、三国時代の古戦場を前にして、英雄も水に流されて消えたと歌う。この方向を「豪放派」と呼ぶ。

散文では、古文の書き手として欧陽脩の後を継いだ。装飾的な駢文に対して、簡潔で論理の通った文章を書く。

代表作の「赤壁賦」は、賦という韻文と散文の中間の形式による。舟を浮かべて客と語り合う場面から始まる。客が、曹操ほどの英雄も今はどこにもいないと嘆くと、蘇軾は水と月を例に挙げて答える。変化の側から見ればすべては一瞬も同じでないが、変化しない側から見れば万物も自分も尽きることがない。だから何を羨むことがあろうか、と。

流謫の経験が作品を変えた。黄州以後、対立と失意を扱いながら、それを嘆きに終わらせない書き方が確立する。困難な状況をそのまま受け入れ、そこで楽しむという態度が一貫している。

書家としても北宋を代表する。「黄州寒食詩巻」は、黄州での寒食の日を詠んだ自作の詩を自ら書いたもので、中国書法史の傑作とされる。

作品

「赤壁賦」(前後二篇、1082年)が代表作である。黄州で書かれた。

「念奴嬌・赤壁懐古」は詞の代表作で、豪放派の典型とされる。

「水調歌頭」(1076年)は中秋の月を歌った詞である。人には離合があり月には満ち欠けがある、という一節と、遠く離れていても同じ月を見ようという結びが広く知られる。現代でも歌曲として歌われている。

「題西林壁」は、廬山を詠んだ七言絶句である。廬山の本当の姿が分からないのは自分がその山の中にいるからだ、という結びが、認識についての比喩として引かれる。

「東坡志林」は随筆集である。

書としては「黄州寒食詩巻」がある。

日本語では詩と詞のアンソロジー、および「赤壁賦」の訳が読める。

文学史における立ち位置と影響

蘇軾は、中国の文人の理想像とされる。詩・文・書・画を兼ね、政治に関わり、失脚しても自分を失わない。この総合性が、後世の士大夫の模範になった。

宋代の文学における位置は決定的である。唐宋八大家の一人に数えられ、韓愈と欧陽脩が進めた古文運動を完成させた。

詞の歴史では、その範囲を拡張した人物として扱われる。宴席の歌だった形式を、士大夫が思索を託せる文学へ変えた。以後、辛棄疾らがこの方向を継ぐ。

陶淵明の評価を決定づけたのも蘇軾である。陶淵明の全詩に和した作品を作り、平淡という価値を明確に打ち出した。今日の陶淵明の地位は、この評価に多くを負っている。

王維について、その詩には絵があり絵には詩がある、と評した言葉も残る。文人画の理論の出発点になった。

日本での受容も厚い。五山文学の僧たちがこの詩人を最も重んじ、松尾芭蕉も影響を受けている。「赤壁賦」は漢文教育の定番教材であり、その舟遊びの場面は日本の絵画にも繰り返し描かれた。

料理の東坡肉に名が残っていることも、この人物の広がりを示している。黄州での貧しい生活のなかで、安い豚肉の調理法を工夫したことに由来するとされる。

登場する文学史