表現主義とは? 外界の再現より内面の表出を優先したドイツの運動
表現主義(ドイツ語で Expressionismus)は、20世紀初頭のドイツとオーストリアで起きた芸術運動である。もとは絵画から始まった呼び名で、やがて詩・演劇・小説、そして映画にも広がった。共通するのは、外の世界を正確に写すことをやめ、内面にあるものを直接ぶつける、という方向である。
「表現主義」という呼び名は、少し前に絵画で流行した印象主義(Impressionismus)に対置する形で、1910年前後から使われるようになった。外の光や色の印象を写しとる印象主義に対し、内側にあるものを表に出す、という違いを示す名である。
直前の時代には、写実主義や自然主義があった。現実をありのままに観察して写す立場である。表現主義はその逆を向く。目に映るとおりに描くのではなく、心が感じた不安・恐怖・恍惚のほうを、形を歪めてでも画面や紙の上に出す。同時期のフランスの象徴主義が、暗示によって奥にあるものを喚び起こそうとしたのに対し、表現主義はそれを叫びのように直接たたきつけた。
見たままではなく、内から
出発点は絵画にある。1905年にドレスデンで結成された画家の集団「ブリュッケ(Die Brücke、橋の意)」が、その始まりとされる。彼らは対象の色や形を、現実に合わせずに歪めた。空が緑になり、顔が赤や黄に塗られ、輪郭が乱暴に太くなる。見えたとおりではなく、感じたとおりに描く、という態度である。
この方向が文学に移ると、言葉が荒くなる。整った詩語や滑らかな文章を避け、切迫した短い叫びのような言葉、感嘆符、造語が使われる。都市、群衆、機械、戦争、狂気、そして世界の終わりのイメージが繰り返し現れる。産業が急速に発達し、大都市に人が集まり、そのなかで個人が押し潰されていく——そういう時代の不安が、この運動の底にある。
詩・演劇・散文
詩では、ゴットフリート・ベンが最も知られる。医師でもあったベンは、詩集『屍体公示所』で解剖台の上の遺体を臨床の視線で書いた。美化も同情もなく、腐敗した肉体をそのまま言葉にする。当時の詩の常識からすれば、扱う対象そのものが違反だった。ほかに、若くして戦争や病で死んだ詩人が多い。二十代で凍った川の事故に遭ったゲオルク・ハイム、第一次大戦の従軍中に薬物で死んだゲオルク・トラークルが、その代表にあたる。
演劇では、筋や人物の心理よりも、叫びと激情が前に出る劇が作られた。父と子の対立、権威への反抗、戦争への抗議といった主題が、様式化された台詞で語られる。舞台装置も現実を写さず、歪んだ影や強い光で心の状態を表した。ゲオルク・カイザーは、人物を「銀行員」「男」と型で呼び、金と機械の社会からの解放を描いた。エルンスト・トラーは、みずから革命に加わって投獄され、その体験から理想と暴力の相克を舞台に上げた。
散文では、アルフレート・デーブリーンが初期に表現主義の雑誌『シュトゥルム(Der Sturm、嵐の意)』に関わった。後の代表作『ベルリン・アレクサンダー広場』で、都市の雑音や広告や新聞記事をそのまま文章に切り貼りする手法をとる。断片を叩きつけるこの書き方は、表現主義の感覚を散文に持ち込んだものと見なされる。
第一次大戦との関係
この運動は、第一次世界大戦をはさんで燃え上がった。戦前には、来るべき破局への予感が詩に満ちていた。世界が終わる、都市が崩れる、というイメージが、大戦の前から繰り返し書かれている。
そして大戦が実際に起きる。四年にわたる大量の死は、理性と進歩を誇ってきたヨーロッパへの信頼を崩した。戦後、表現主義はいっそう激しく、反戦と人類同胞の理想を掲げる。だがその高揚は長く続かなかった。1920年代半ばには勢いを失い、より冷静に現実を捉えようとする「新即物主義(Neue Sachlichkeit、新しい即物性)」に取って代わられる。内面の激情から距離を置き、対象を醒めた目で見ようとする立場である。
カフカとの距離
同じ時代・同じ言語圏に、カフカがいる。説明のつかない不条理な状況を書いた点で、表現主義と並べて語られることが多い。だがカフカ自身はこの運動に属さない。表現主義が感情を叫びとしてたたきつけたのに対し、カフカの文章は法律文書のように平明で、感情を抑えている。異様なのは文体ではなく状況設定のほうである。同時代でありながら方向が違う例として、両者はしばしば対比される。
後世への影響
表現主義の影響は、演劇と映画に強く残った。歪んだ舞台と激情の台詞という方法は、後の前衛的な演劇に受け継がれる。映画では、『カリガリ博士』のような、歪んだ書き割りと極端な陰影で不安を表す作品が生まれ、後のホラー映画や暗い犯罪映画の映像に影響した。
ナチスは表現主義を「退廃芸術」として排斥した。近代の前衛的な芸術を病んだものとして攻撃した際、この運動もその対象になっている。運動を担った者の多くが亡命し、あるいは沈黙を強いられた。
日本での受容は、大正期から昭和初期にかけて進んだ。演劇と詩の分野で紹介され、同時期の日本の前衛的な動きとも重なっている。