笈の小文

作者
松尾芭蕉
成立
1709
日本

概要

芭蕉が伊勢から吉野、須磨へと旅した記録であり、その芸術論を含む紀行文である。

芭蕉野ざらし紀行に続いて、ふたたび西への旅に出る。この『笈の小文』は、その旅を綴った紀行文にあたる。芭蕉の生前には成らず、没後に門人の手で刊行された。

この作品が名高いのは、冒頭に置かれた芸術論による。芭蕉はそこで、自分の生涯を貫くものを「風雅(ふうが)」と呼ぶ。西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶——それらを貫く一筋の道は同じであり、その根本は「造化にしたがひて四時を友とす」ことだと説く。自然の営みに従い、四季を友とする。それが風雅の道である、と。

有名な一節がある。「見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし」——見るものすべてが花であり、思うことすべてが月である。自然の美を感じ取れぬ者は、野蛮人に等しい、と芭蕉は言い切る。

旅そのものは、伊勢神宮への参拝に始まり、故郷の伊賀、吉野の桜、和歌の浦、そして須磨・明石へと至る。行く先々の名所旧跡で、芭蕉は歌枕をたどり、句を詠んでいく。

文学史における評価と影響

松尾芭蕉の芸術論を伝える紀行文として、とりわけ重んじられてきた作品にあたる。

この作品の最大の価値は、冒頭の「風雅」論にある。芭蕉は自らの俳諧を、西行・宗祇・雪舟・利休といった過去の芸術家の営みと、一本の線でつなぐ。和歌、連歌、絵画、茶道と俳諧は、根本において一つであり、いずれも自然に従い四季を友とする道だという。俳諧を、諸芸術と並ぶ高い芸術へと位置づける宣言である。

「造化にしたがひて四時を友とす」という言葉は、芭蕉の自然観を凝縮している。人為を捨て、自然の変化そのものと一体になる。この思想は、後のおくのほそ道の枯淡の境地へと深められていく。

紀行としては、野ざらし紀行よりも叙述が豊かで、名所や歌枕をめぐる文章に、古典への深い教養がにじむ。吉野の桜や須磨の月など、和歌の伝統に彩られた土地を、芭蕉は先人の歌を偲びながらたどっていく。

生前に完成されなかったため、構成にはまとまりを欠くところもある。それでも、芭蕉の芸術観を直接に語る文章として、この一巻は特別な位置を占めている。

内容

貞享四年(1687年)の冬。芭蕉は江戸を発ち、西へ向かう旅に出る。

紀行はまず、芭蕉の芸術論から始まる。芭蕉は、自分の身のうちに宿るものを「風雅」と呼び、こう記す。西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶。その道を貫くものは一つであり、いずれも自然に従い、四季を友とすることを根本とする。

そして芭蕉は言い切る。「見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし」。 目に映るものすべてに花の美しさを見、心に思うことすべてに月の風情を感じる。もしその境地に至らぬなら、鳥や獣に等しい野蛮人である、と。

旅は、まず郷里へ向かう。芭蕉は故郷の伊賀上野で年を越し、新年を迎える。そして伊勢神宮に参拝する。

やがて芭蕉は、桜の名所吉野を訪ねる。満開の桜のなかで、芭蕉はあまりの美しさに、かえって句を詠めなかったと記す。西行や、かつての歌人たちが愛でた吉野の桜を、芭蕉は先人の面影とともに眺める。

旅はさらに、和歌の浦、紀三井寺、奈良を経て、大坂、須磨、明石へと至る。須磨・明石は、『源氏物語』や『平家物語』ゆかりの和歌に名高い土地である。 芭蕉は、源氏の君の流謫や、平家の哀話を偲びながら、海辺の景色に句を寄せる。

「蛸壺やはかなき夢を夏の月」——蛸壺に入った蛸は、明日には捕らえられるとも知らず、はかない夢を見ている。その上に、夏の夜の月がかかっている。人の世のはかなさを、静かに詠んだ一句である。

行く先々の歌枕をたどり、古典の世界を偲びながら旅した記録。その冒頭に自らの芸術観を高らかに掲げたこの紀行は、芭蕉の風雅の道を知る、かけがえのない一巻となっている。

作者

登場する文学史