尾崎紅葉
- 原綴
- Ozaki Kōyō
- 生没
- 1868–1903
- 出身
- 江戸・芝中門前町(現・東京都港区)
- 本名
- 尾崎徳太郎
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
生涯
1868年、江戸の芝(現・東京都港区)に生まれた。本名は徳太郎。帝国大学(現・東京大学)に学んだが、中退して文学に専念した。
学生時代の1885年、仲間とともに文学結社の硯友社(けんゆうしゃ)を興し、同人誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を出した。硯友社は明治期の最初の本格的な文学者の集団で、紅葉はその中心にいた。作家として人気を得てからは、読売新聞の記者として小説を連載し、明治中期の文壇で大きな力を持った。
門下からは多くの作家が育った。門をたたいた者を住み込みで指導する、いわゆる紅葉の一門は、明治文学の一大勢力となった。晩年は代表作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の連載なかばで胃癌を病み、1903年、三十五歳で没した。作品は未完のまま残された。
作風
紅葉の文章は、雅語(古典的な言葉)と俗語(日常の言葉)を巧みに織りまぜる、雅俗折衷の文体である。江戸文学の伝統を受け継ぎ、言葉を細かく彫琢した、装飾的で技巧的な文章を書いた。
扱う主題は、恋愛や人情、金と情のからむ人間関係が多い。西洋の近代小説の影響を取り入れつつも、井原西鶴ら江戸の町人文学の写実と語り口を強く受け継いだ。江戸の趣味と、明治の新しい題材を橋渡しする位置にあった。
言文一致(話し言葉に近い文体)の試みにも早くから取り組んだが、最終的には練り上げた文語調の文体に軸足を置いた。文章の完成度を何よりも重んじる態度が、紅葉の作家としての姿勢である。
作品
『金色夜叉(こんじきやしゃ)』(1897-1902年)
読売新聞に連載された長篇小説である。許嫁のお宮を金持ちに奪われた青年・間貫一(はざまかんいち)が、復讐のため冷酷な高利貸しになる筋立てで、金と愛の相克を描いた。熱海の海岸で貫一がお宮を足蹴にし、「来年の今月今夜……僕の涙で必ず月を曇らせて見せる」と叫ぶ場面は、芝居や歌謡にもなり、広く知られた。作者の死により未完に終わった。
『多情多恨(たじょうたこん)』
妻を失った男の悲嘆と心の揺れを描いた小説である。言文一致に近い文体で人物の内面に踏み込み、心理描写の面で紅葉の到達点を示した作品とされる。
文学史における立ち位置と影響
紅葉は、硯友社を率いて明治中期の文壇を主導した中心人物として文学史に名を残す。幸田露伴と並び称され、二人の名から明治二十年代の文学は「紅露時代(こうろじだい)」と呼ばれた。
その功績は、作品そのものだけでなく後進の育成にもある。門下からは泉鏡花や徳田秋声(とくだしゅうせい)ら、次代を担う作家が輩出した。秋声はのちに自然主義を代表する小説家となる。
一方で、江戸文学の技巧を受け継いだ紅葉の装飾的な文体は、まもなく起こる自然主義の平明な文章によって、古いものとされていった。江戸の伝統と近代小説のはざまに立ち、明治の文章語を練り上げた過渡期の大家として位置づけられる。