トゥキュディデス
- 原綴
- Θουκυδίδης
- 生没
- 前460頃–前400頃
- 出身
- アテナイ
- 国
- ギリシャ
- 時代
- 古典期
生涯
前460年頃、アテナイの富裕な家に生まれた。トラキア地方(現在のギリシャ北東部からブルガリアにかけて)に金鉱の権益を持つ有力な家柄だった。
ペロポネソス戦争のさなか、アテナイの将軍の一人に選ばれた。前424年、北方の重要都市アンフィポリスの防衛を任されたが、到着が間に合わずスパルタ側に奪われる。この失敗の責任を問われ、アテナイから追放された。
追放は結果として著述の条件になった。以後の二十年間、各地を回って戦争の両陣営から情報を集めることができた。一方の市民のままでは得られない視点で、戦争の全体を見ることになる。
戦争の終結前後に死去したと考えられている。『戦史』は未完のまま、前411年の記述で途切れている。
作風
トゥキュディデスが記録したのは、アテナイとスパルタが戦ったペロポネソス戦争である。自分が同時代に体験した戦争を、進行中から書き記した。過去の出来事を調べたヘロドトスとは、ここが違う。
方法を序文で明言している。伝聞や言い伝えは排し、自分が見たこと、あるいは信頼できる証言によって確認できたことだけを書く。同じ出来事について証言が食い違うときは、突き合わせて確からしいほうを選ぶ。神話も神の意志も持ち込まない。この禁欲的な態度が、それまでの記録と一線を画す。
原因を人間の次元で説明する。戦争が起きたのは神罰でも運命でもなく、アテナイの勢力拡大をスパルタが恐れたからだ、と述べる。国家の力関係と、指導者の判断と、大衆の心理。それだけで出来事を説明しようとした。この見方が、後に国際政治を論じる理論の古典的な出発点になっている。
演説を多く挟むのも特徴である。指導者たちが要所で行った演説が、長く再現される。ただしトゥキュディデス自身、それらは実際の言葉そのままではなく、その場で言われるべきだったことを自分が書いた、と断っている。指導者ペリクレスがアテナイの戦没者を悼んだ「葬送演説」は、民主政の理念を語ったものとして今日も引かれる。
冷静な筆致のなかに、人間が極限で崩れていく様も書かれる。アテナイを襲った疫病の描写、内乱で言葉の意味そのものが変わっていく分析、そして中立を保とうとした小島メロスへの、アテナイの容赦ない対応。強者が弱者に何をするかを、感情を交えずに記録している。
作品
『戦史(Ἱστορίαι、ペロポネソス戦争史)』が唯一の著作である。全8巻。前411年までで記述が途切れ、未完に終わった。戦争そのものは前404年まで続いている。
第2巻に、ペリクレスの葬送演説と、アテナイの疫病の記述がある。第5巻に、メロス島をめぐるアテナイと島民の問答(メロス対話)が置かれ、力が正義を決めるという論理が剥き出しで語られる。第6巻から第7巻は、アテナイがシチリアへ送った大遠征とその壊滅的な失敗を描く。
日本語では全訳がある。葬送演説、メロス対話、シチリア遠征といった山場から入るのが読みやすい。
文学史における立ち位置と影響
科学的な歴史記述の祖とされる。検証できる事実だけを書き、原因を人間の力で説明するという方法は、後の歴史学の規範になった。「歴史の父」ヘロドトスが物語と民族誌を含めて書いたのに対し、トゥキュディデスは記録を事実に絞った。二人はしばしば対比され、歴史記述の二つの型として並べられる。
国際政治の理論でも古典とされる。台頭する新興国と既存の強国のあいだで戦争が避けにくくなる状況を「トゥキュディデスの罠」と呼ぶ言い方が、現代の外交論でも使われる。国家は力の論理で動くとする見方の源として、繰り返し参照されてきた。
メロス対話は、力と正義をめぐる議論の原典として読まれ続けている。正義は対等な者のあいだでしか意味を持たず、強者はできることをし、弱者は従うほかない、という島民との問答は、政治哲学の教材になっている。
日本での受容は、西洋古典と政治思想の研究のなかで進んだ。近年は国際関係論の文脈でも読まれている。