すばらしい新世界
- 原題
- Brave New World
- 作者
- オルダス・ハクスリー
- 成立
- 1932
- 国
- イギリス
- 時代
- 20世紀以降
概要
1932年に刊行された長篇小説である。20世紀のディストピア小説を代表する作品の一つにあたる。
舞台ははるか未来の世界国家である。この社会では人間は母から生まれない。工場の瓶のなかで培養され、生産される。しかも生産の段階で階級が決まっている。優秀なアルファから単純労働に向くイプシロンまで五つに振り分けられ、酸素の量を加減するなどして、その階級にふさわしい能力に調整される。
この社会は徹底して安定しており、人々は幸福である。争いも苦悩も老いの恐怖もない。不快なことがあればソーマという副作用のない薬を飲めばよい。性は自由で、家族も恋愛も存在しない。誰もが与えられた幸福に満足しきっている。
だがこの社会には芸術も宗教も、深い感情も真実の探求もない。安定と幸福のために、人間らしさの多くが捨てられている。
ハクスリーは1894年の生まれである。科学者の家系に育ち、科学に深い造詣を持っていた。この作品は、当時進みつつあった科学技術と大量生産の思想への諷刺として書かれている。
作中の暦は、自動車王ヘンリー・フォードの名にちなんで数えられる。フォードが確立した流れ作業による大量生産の方式が、人間そのものの生産にまで適用された社会、という諷刺になっている。
題名の「すばらしい新世界」は、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の一節から取られた。島で育った娘が初めて人間の集団を見て発する感嘆の言葉である。ジョンがこの語を口にするたびに、その意味が反転していく。
文学史における評価と影響
ディストピア小説の代表作であり、オーウェルの一九八四年、ザミャーチンのわれらとしばしば並べて論じられる。
この三作を分けるのは支配の方式である。オーウェルの社会は恐怖と監視によって人を支配する。ハクスリーの社会は快楽と満足によって支配する。人々は抑圧されているのではない。与えられた幸福に満ち足りて、自ら進んで自由を手放している。
批評家はこの二つをよく対比してきた。オーウェルは人が憎むものによって破滅させられることを恐れ、ハクスリーは人が愛するものによって破滅させられることを恐れた、という言い方がされる。娯楽があふれ、人々が考えることをやめていく社会では、ハクスリーの予見のほうが当たっているのではないか、という議論が繰り返されてきた。
主題としては、幸福と人間らしさの対立が中心にある。安定のためにこの社会は芸術も宗教も深い感情も自由も捨てた。不幸になる権利を求めるジョンの言葉が、その核心を突く。苦悩のない幸福は本当に望ましいのか。人間らしさとは、苦悩や不自由をも含むものではないのか。
日本でも繰り返し訳され、広く読まれてきた。三作を並べて読むと、それぞれの支配の論理の違いが際立つ。
あらすじ
物語はまずこの未来社会の仕組みの紹介から始まる。ロンドンの孵化・条件づけセンターで、人間が瓶のなかで培養され、階級ごとに条件づけられる工程が案内される。眠っているあいだに教訓を繰り返し聞かせる睡眠教育によって、人々は自分の階級に満足し、社会の価値観を疑わないよう育てられる。
この社会にわずかな違和感を抱く人物がいる。アルファ階級のバーナード・マルクスである。体格に恵まれず周囲になじめずにいる。バーナードは女性レーニナを連れて、社会の外にある野蛮人保護区を訪れた。そこには文明化されていない生活を送る人々がいる。
保護区でバーナードは青年ジョンと出会う。文明社会の女性がこの保護区で産んだ子だった。ジョンは母から文明社会の話を聞かされ、偶然手に入れたシェイクスピアの全集を読んで育っている。ジョンにとって世界を理解する言葉はそこにしかなかった。バーナードはこの青年を文明社会へ連れ帰る。
文明社会でジョンは見世物として注目を集める。だがこの社会に深く幻滅した。快楽だけがあり、深い感情も真実も美もない。ジョンが持っている愛や苦悩や自由への渇望を、この社会は必要としていない。母が死ぬときも、周囲は死を怖がらないよう訓練された子どもたちに囲まれ、悲しむことすら許されない。
ジョンは世界統制官の一人ムスタファ・モンドと対話する。この対話が作品の思想的な核心にあたる。モンドは、なぜこの社会が芸術も宗教も自由も捨てて安定を選んだのかを説明する。真実や美は人を不安定にする。苦悩のない幸福のためには、それらを手放すしかない、と。ジョンはこれに反論する。快適さは要らない、自分は詩を、危険を、善を求める、不幸になる権利を要求する、と述べる。
ジョンの抵抗は実を結ばない。文明社会を逃れて一人で隠遁し、鞭で自らを打って身を清めようとするが、それが物珍しさから見物人を呼び寄せる。群衆に取り囲まれ、乱痴気騒ぎに巻き込まれた翌朝、ジョンは首を吊って死ぬ。その遺体が発見される場面で物語は閉じられる。