施耐庵

原綴
施耐庵
生没
1296頃–1372頃
出身
不明(江蘇省興化説がある)
中国
時代
元明清

生涯

生没年も出身地も確定していない。1296年頃から1372年頃の人とされるが、根拠は乏しい。

明代の記録に水滸伝の作者として名が挙がるが、その人物についての説明はほとんどない。江蘇省興化の出とする伝承、科挙に及第して官職に就いたが辞した、張士誠の幕下にいたといった話が伝わるが、いずれも後世の記述であり、確かめようがない。

実在そのものを疑う説も出されてきた。「耐庵」が号であって個人名ではない、あるいは羅貫中の別名だとする論がある。20世紀に興化で発見された墓誌をめぐっても、真偽の議論が続いた。

羅貫中との関係についても、師弟だった、共著だった、羅貫中が施耐庵の稿を継いだ、と諸説ある。版本によって、作者名の記載が異なることが問題を複雑にしている。

現状では、水滸伝は特定の個人の創作ではなく、講釈と芝居の集積を誰かが編纂したものと理解されている。施耐庵はその編纂者に擬されている名前だ、というのが妥当な捉え方になる。

作風

水滸伝の方法は、独立した人物伝を連ねて集団の物語にすることである。

前半は、一人ずつの物語が順に語られる。役人の陥れに遭って追われる林冲、虎を素手で倒す武松、五台山で暴れる魯智深。それぞれが理不尽な目に遭い、法の外へ出て、梁山泊へ集まっていく。人物の紹介が終わると次の人物へ移り、以前の人物は背景に退く。この連鎖によって、百八人が揃う。

一人ひとりの造形が濃い。武松が兄の仇を討つ経緯、魯智深が肉屋を殴り殺してしまう場面、林冲が雪の夜に草料場を焼かれる場面。それぞれが独立した読み物として成立している。

暴力の描写が生々しい。人を殺す場面、肉を食う場面が、飾らずに書かれる。義侠の物語でありながら、その暴力は必ずしも正当化されない。無関係な人間を巻き添えにする場面も多く、登場人物を単純な英雄として読むことができない。

後半は調子が変わる。梁山泊が朝廷の招安を受け入れ、官軍として他の反乱を討伐する。そして次々に死んでいく。反体制の物語が、体制への回収で終わるという構造になっている。この後半の扱いをめぐっては、版本によって差があり、七十回で切る版も広く読まれた。

文体は白話である。会話が生き生きとしており、口語のリズムがそのまま文章になっている。

作品

水滸伝

唯一の作品とされる。北宋末の宋江の反乱という史実を核に、百八人の豪傑が梁山泊に集まる物語として構成されている。

版本が多い。百回本、百二十回本、そして金聖歎が七十回で切った七十回本がある。金聖歎は招安以後の部分を削り、梁山泊に集まったところで終わらせた。この版が清代以降、最も広く読まれている。

日本語では全訳が複数出ている。分量が大きいので、まず武松や魯智深の挿話から入る読み方も一般的である。

文学史における立ち位置と影響

水滸伝は四大奇書の一つに数えられる。

白話小説の成立という点で位置づけられる。口語で書かれた長篇として、文言による文学とは別の系統を確立した。この系統から、後の西遊記金瓶梅紅楼夢が出る。

体制に対する反抗の物語として、繰り返し政治的に扱われた。明清の時代には禁書とされることがあり、一方で反乱の際には、この物語が旗印として用いられている。20世紀にも、農民反乱を描いた作品として顕彰された時期と、招安を投降主義として批判された時期がある。

人物の造形は後世の規範になった。武松、魯智深、李逵といった人物像は、講談、京劇、絵画に繰り返し登場する。

日本での受容も厚い。江戸期に翻訳と翻案が作られ、滝沢馬琴南総里見八犬伝は、この作品を直接の手本にしている。八人の犬士が集まるという構成は、百八人が梁山泊に集まる構造の変形にあたる。歌川国芳の武者絵も、この物語の人物を題材にして流行した。

作者の帰属が不確かであることは、この作品の性格を示してもいる。単独の作者による創作ではなく、長い口承の蓄積の上に成り立つ書物だという点で、三国志演義西遊記と共通する。

作品

登場する文学史