羅貫中

原綴
羅貫中
生没
1330頃–1400頃
出身
山西省太原(諸説あり)
中国
時代
元明清

生涯

生没年も出身地も確定していない。1330年頃から1400年頃の人とされ、山西省太原の出とする説が有力だが、杭州、東原(山東省)とする説もある。

伝わる記録はごく限られる。同時代の書物に、羅貫中という人物が言葉少なで人と交わらなかった、という趣旨の短い記述がある。元末の群雄の一人、張士誠の幕下にいたという説もあるが、確証はない。

水滸伝についても、施耐庵の弟子として編纂に関わった、あるいは共著者だとする伝承がある。ただし施耐庵自身の実在も確実ではなく、この関係は伝説の域を出ない。

複数の作品が羅貫中の名で伝わるが、その帰属もそれぞれ議論がある。実在の人物であることは認められているものの、伝記としてはほとんど何も分かっていない。

作風

羅貫中の仕事は、書くというより、まとめることだった。

三国時代の物語は、宋代から講釈師によって語られ、元代には雑劇として演じられていた。断片的な逸話が大量に流通しており、それぞれ独立した演目になっていた。

三国志演義は、この素材を一つの筋に編み直したものである。典拠としたのは、陳寿の正史『三国志』と、それに付された裴松之の注、そして講釈と芝居の蓄積である。史実と伝承を組み合わせ、百二十回の長篇に構成した。

「七分の実、三分の虚」という評がある。清代の学者章学誠が述べたもので、七割が史実、三割が虚構という意味である。この配合が読者に、史実を読んでいるという感覚を与えつつ、物語としての面白さを保証している。

構図は明確である。蜀の劉備を正統とし、魏の曹操を簒奪者として描く。この立場は羅貫中の創意ではなく、宋代以降の講釈で既に定まっていた。歴史学の正史は魏を正統としているため、演義は史書とは逆の立場をとることになる。

人物が類型として造形される。劉備は仁徳、関羽は忠義、張飛は勇猛と粗暴、諸葛亮は智謀、曹操は才能と奸悪。それぞれの性格が一貫し、行動がその性格から導かれる。この分かりやすさが、大衆的な普及を支えた。

文体は文言と白話の中間にある。完全な口語ではなく、漢文の素養がある読者を想定した書き方になっている。

作品

三国志演義

主著である。後漢末の黄巾の乱から、三国の分立を経て、晋による統一までを扱う。

現在広く読まれているのは、清代に毛宗崗父子が手を入れた「毛宗崗本」である。明代の嘉靖本と比べると、文章が整えられ、劉備を正統とする傾向がさらに強められている。

『三遂平妖伝』も羅貫中の作とされるが、帰属には疑問が出されている。

水滸伝については、編纂への関与を伝える版本がある。

日本語では三国志演義の全訳が複数出ている。分量が大きいため、抄訳や、吉川英治による翻案から入る読者も多い。

文学史における立ち位置と影響

三国志演義は、中国で最も広く読まれた小説の一つである。四大奇書の一つに数えられる。

歴史小説という形式を確立した点で位置づけられる。史実を骨格として、そこに人物の造形と会話を加えるという方法は、以後の中国小説の一つの型になった。

普及の規模が突出している。読み書きのできない層にも、講釈と芝居を通じて筋が知られていた。三顧の礼、桃園の誓い、赤壁の戦い、泣いて馬謖を斬る。これらの語が日常語として定着している。

歴史認識にも影響した。三国時代についての一般の理解は、正史ではなくこの小説に基づいている。曹操が悪役として広く認識されているのも、この作品による。史実の曹操は優れた統治者であり詩人でもあったため、その評価の落差はしばしば指摘される。

日本での受容も早く、江戸期に湖南文山による訳『通俗三国志』が出た。以後、絵本、講談、小説、漫画、ゲームへと形を変えて広がっている。日本における中国の物語の受容として、最も規模が大きいものにあたる。

一方、文学としての評価は紅楼夢より低く置かれてきた。人物が類型的であること、作者の独創が限られることが理由である。魯迅も『中国小説史略』で、人物の描き方が単純だと指摘している。

作品

登場する文学史