ニコライ・ネクラーソフ

原綴
Николай Некрасов
生没
1821–1878
出身
ネミロフ(現・ウクライナ)
ロシア
時代
黄金時代

生涯

1821年に生まれ、ヴォルガ河畔の父の領地で育った。父は専横な地主で、農奴を虐げ、母を苦しめた。この父への反発と、母への同情、そして農民の苦しみを間近に見た経験が、生涯の主題を決めた。

十七歳でペテルブルクへ出た。父の意向に背いて大学入試を目指したため、仕送りを断たれ、極貧のなかで数年を過ごす。この飢えと貧困の体験も、後の作品に反映されている。

やがて雑誌の仕事で頭角を現した。1847年、文芸誌『同時代人』を買い取り、その編集者になる。この雑誌は、ツルゲーネフトルストイドストエフスキーらの初期作品を掲載し、19世紀半ばのロシア文学の中心的な舞台になった。ネクラーソフは、優れた編集者であり、経営者だった。

1866年に『同時代人』が当局に閉鎖された後は、別の雑誌『祖国雑記』を引き継いで、進歩的な文学の場を守り続けた。

晩年は腸の病に苦しんだ。その闘病のなかで書かれた「最後の歌」は、死に向き合う痛切な詩群である。1878年、五十六歳で死去した。その葬儀には数千人が集まり、民衆の詩人として悼まれた。

作風

ネクラーソフが詩の主題にしたのは、民衆の苦しみである。

それまでのロシアの詩は、美しい自然や、洗練された感情を歌うものが主流だった。ネクラーソフは、その伝統から外れた。飢えた農民、酷使される労働者、身を売る女、虐げられた子ども。詩にふさわしくないとされてきた、みじめで醜い現実を、正面から詩の対象にした。

言葉も変えた。優美な詩語ではなく、民衆の話し言葉、日常の散文的な語彙を、詩のなかに持ち込んだ。この「非詩的」な言葉づかいは、当時、詩の破壊とも見なされたが、現実を写すための必然だった。

代表作『ロシアは誰に住みよいか』は、その集大成である。七人の農民が、ロシアで幸福に暮らしているのは誰かを探して、各地を旅する。地主、聖職者、役人、商人。誰を訪ねても、真の幸福は見つからない。そして、彼らが出会う無数の農民たちの苦難に満ちた生活が、次々に語られる。民謡や伝承の形式を取り入れた、大規模な叙事詩である。未完に終わった。

「詩人と市民」という詩では、詩人の使命が論じられる。詩人である前に、市民であれ。芸術のための芸術ではなく、社会のために書け、という主張である。この立場は、後のロシアで、文学が社会に関与すべきだという考え方の一つの源になった。

母と、虐げられた女性への共感が、繰り返し現れる。専横な父のもとで苦しんだ母の姿が、ロシアの民衆の苦しみと重ね合わされている。

作品

『ロシアは誰に住みよいか』(1866〜77年)

代表作である。幸福を探して旅する農民たちを通じて、ロシアの民衆の生活を描いた叙事詩にあたる。

「行商人」は、民謡風の形式で、行商人とその恋人を描いた詩である。歌としても広く歌われた。

「厳寒、赤鼻」は、夫を失った農婦の悲しみを描く。

「鉄道」は、鉄道建設に酷使されて死んだ労働者たちを歌った詩である。

「詩人と市民」は、詩人の社会的な使命を論じた詩にあたる。

日本語では詩の抄訳がある。

文学史における立ち位置と影響

ネクラーソフは、ロシアにおける「市民詩人」の代表とされる。詩を、美の探求ではなく、社会への発言の手段とした。この方向は、以後のロシアの詩に大きな流れを作った。

詩の主題と言葉を、民衆の側へ開いた功績が大きい。それまで詩の対象外とされてきた、貧困や労働や苦難を、詩のなかに持ち込んだ。この「散文的な」現実を歌う方向は、20世紀のマヤコフスキーらにも受け継がれていく。

編集者としての役割も、それに劣らず重要である。『同時代人』と『祖国雑記』を通じて、ネクラーソフは19世紀ロシア文学の主要な作家を世に送り出した。ツルゲーネフトルストイドストエフスキー、そして批評家のベリンスキー、チェルヌイシェフスキー、ドブロリューボフ。彼らが活動する場を作り、支えたのがネクラーソフだった。作家であると同時に、文学という制度の運営者でもあった。

政治的には、進歩的・革命民主主義的な立場に立った。文学が社会変革に奉仕すべきだという考え方の実践的な担い手だった。この立場は、後にソヴィエト期に高く評価され、ネクラーソフは民衆の詩人として顕彰された。

一方、その詩を、芸術性より思想を優先したものとして、低く見る評価もあった。美的な洗練より、社会的な主張を重んじたためである。この評価は、時代によって揺れてきた。

日本での受容は、社会主義的な文学への関心のなかで進んだ。民衆の苦しみを歌った詩人として紹介されている。

登場する文学史