白樺派とは? 大正期に人道主義と個性を掲げた作家たち
白樺派は、1910年に創刊された同人雑誌『白樺』に集まった作家たちを指す。大正期の文学を代表する一群で、人間の善意と個人の生を明るく肯定する理想主義を掲げた。直前の時代に文壇を占めていた自然主義への反発から出発している。
雑誌『白樺』から
雑誌『白樺』は1910年(明治43年)に創刊された。中心になったのは、学習院で学んだ裕福な家の青年たちである。恵まれた境遇のなかで育ち、生活苦とは無縁だったことが、この一派の楽天的な調子の背景にある。
『白樺』は文学だけの雑誌ではなかった。西洋の新しい美術を、図版つきで日本に紹介する窓口でもある。ロダンの彫刻、セザンヌやゴッホの絵が、この雑誌を通じて広く知られるようになった。文学と美術をまたいで、同時代の西洋の芸術を受け止めようとする姿勢が特徴だった。雑誌は1923年、関東大震災の年に終刊する。
人道主義——自然主義への反発
白樺派の作家が共有したのは、人間と生を肯定する態度である。人はもともと善であり、個人が自分の可能性をのびのびと伸ばすことに価値がある、と考えた。ロシアのトルストイの思想、とくにその人道主義と理想主義から強い影響を受けている。
この立場は、直前の自然主義への反発として際立った。自然主義は、人間を遺伝と環境に縛られた存在としてとらえ、暗い現実を隠さず観察しようとした。白樺派はその逆を向く。宿命や暗さではなく、自我の伸長と善意を前に出した。ただし、社会の矛盾から目を背けた恵まれた者の楽観だ、という批判も早くから向けられている。
理想を作品と生活で示す
武者小路実篤は、この一派の思想の中心にいた。人間どうしの信頼や愛を率直に描き、理想をそのまま生活で試そうともした。1918年には宮崎県に「新しき村」という共同体を作り、働きながら芸術に生きる生活を実践している。作品と生き方を地続きにしようとした点に、この作家の特徴がある。
志賀直哉は、白樺派が生んだ最も影響力の大きい書き手になった。修飾を削ぎ落とし、事実と動作を短く言い切る文章で、後に「小説の神様」と呼ばれる。長篇暗夜行路のほか、短篇城の崎にてや小僧の神様で、澄んだ文体を確立した。自分の心の動きをそのまま書く志賀の方法は、のちの私小説や心境小説にもつながっている。
同人にはほかに、社会の矛盾により強く向き合った作家もいた。有島武郎は、恋愛を軸に女性の生を描いた『或る女』を書き、自らの所有する農地を小作人に解放したのち、1923年に自殺している。同じ人道主義から出発しながら、その帰結が一様でなかったことを示す例である。
文学史における位置と影響
大正期の文学を代表する潮流である。自然主義が退いたあとの文壇で、人道主義と理想主義を掲げて中心的な位置を占めた。プロレタリア文学が階級の問題を持ち込む前の、個人と人間性を主題にした時代の代表にあたる。
最も長く残った影響は、志賀直哉の文体である。無駄のない言い切りの文章は、以後の日本の散文に広く模倣された。思想の面では、恵まれた立場からの楽観という限界を指摘されつつも、人間を肯定する明るさが、暗さを競う自然主義の後に一つの選択肢を示したこと自体が、文学史における意味とされている。