城の崎にて

作者
志賀直哉
成立
1917
日本
時代
近代

概要

十ページほどの短篇である。事件は何も起こらない。

語り手は電車にはねられて怪我をし、後養生のために城崎温泉に来ている。一人で、することがない。 散歩し、寝転び、本を読む。

その滞在中に、三つの生き物の死を見る。

一つめは蜂。玄関の屋根で死んでいる。他の蜂が働き続けるそばで、動かないまま三日間そこにある。静かだ、と語り手は思う。

二つめは鼠。首に魚串を刺されて川に投げ込まれ、逃げようとしている。石を投げる見物人がいる。鼠は必死で泳ぎ、岸に上がろうとしては落ちる。 死ぬことは決まっているのに、その前の努力が続く。

三つめは蠑螈。語り手が何気なく石を投げる。当てるつもりはなかった。 だが石は当たり、蠑螈は死ぬ。

この三つが、それぞれ違う死である。死んだ後の静けさ。死ぬまでの騒ぎ。そして、偶然による死。

語り手は自分の事故を思い出す。あの時、死んでいてもおかしくなかった。生きていることと死ぬことは、そんなに離れていない。 その感覚が、三つの死を通して形になっていく。

そして、それ以上の結論は書かれない。語り手は三週間ほどで温泉を出て、東京へ帰る。背中の傷は治り、脊椎カリエスにはならなかった、と最後に記される。

志賀直哉は実際に1913年に山手線にはねられている。この作品はその四年後にあたる。

文学史における評価と影響

日本の短篇小説で、最も繰り返し読まれ、教えられてきた一篇にあたる。

評価の中心は文体にある。短い文が続く。修飾が少ない。見たものと、そのとき考えたことだけを書く。 比喩をほとんど使わない。

この文体は「小説の神様」という志賀への呼び名の根拠になった。多くの作家が手本とし、そして真似できないと言った。 芥川龍之介は晩年、志賀の書くものを、筋のない小説として最も純粋なものだと評価している。

「心境小説」という呼び方が、この種の作品に与えられた。私小説の一種だが、蒲団のような告白ではない。事件を書かず、書き手の心の状態だけを書く。 志賀はこの形式を代表する作家とされる。

同時に、この作品は批判もされてきた。社会も歴史も出てこない。書き手の心の動き以外に何もない。日本の小説が内向きになった原因の一つを、志賀の完成度の高さに求める議論がある。

三つの死の配置は、しばしば構成の例として分析される。静かな死、苦しい死、偶然の死。この順に並ぶことで、語り手の感覚が段階的に変わっていく。 意図して組まれた構成であることは明らかだが、読んでいるあいだはそう見えない。

内容

山の手線の電車にはねられて怪我をした。その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命的だが、そうならなければ助かる。医者はそう言った。

三週間ほど滞在した。何もすることがない。散歩し、部屋で本を読み、また出かける。

近くの小川に沿って歩く。静かで、独りでいるのに向いている。

ある朝、玄関の屋根に蜂の死骸を見つけた。他の蜂は忙しく出入りしている。その中で、一匹だけが冷たい瓦の上で動かない。朝も昼も夕方も、同じ形で同じ場所にいる。

それは静かだった。死んだ蜂を見て、静かだ、と語り手は感じる。生きているものの傍らで、そこだけ動きが止まっている。

三日ほどして、その死骸はなくなった。雨に流されて、土の下か屋根の樋に入ったのだろう。

別の日、川で騒ぎがあった。大きな鼠が首に魚串を刺されて川に投げ込まれている。石垣に這い上がろうとしては落ちる。子どもや車夫が石を投げて面白がっている。

鼠は必死で逃げようとしていた。首の串が邪魔で、穴に入れない。死ぬことは決まっているのに、それまでの努力が続いている。

語り手は自分の事故を思い出す。あの時、自分も同じだった。医者に致命傷かと聞き、そうでないと分かって安堵した。静かさを願いながら、実際には死にたくなかった。

さらに別の日。小川のそばの石の上に、蠑螈がいた。語り手はそれを見て、水に入れて驚かせてやろうと思った。

足元の石を拾って投げた。当てる気はなかった。狙って当たるような距離でも技量でもない。

だが石は蠑螈に当たった。蠑螈は前足を反らせ、そのまま動かなくなった。

語り手は、悪いことをしたと思う。自分は生きている。蠑螈は死んだ。その差は、偶然でしかない。

生きていることと死んでいることは、両極ではない。そんなに差はないような気がする、と語り手は書く。

三週間が過ぎ、東京へ帰った。それから三年以上経ったが、脊椎カリエスにはならずに済んだ。

作者

登場する文学史