ウンガレッティ
- 原綴
- Giuseppe Ungaretti
- 生没
- 1888–1970
- 出身
- アレクサンドリア(エジプト北部・地中海沿岸)
- 国
- イタリア
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1888年、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。両親はイタリアからの移民である。父はスエズ運河の工事に従事し、事故で死んだ。母はパン屋を営んで一家を支えた。
砂漠に近い港町で育った。イタリアではなくこのエジプトの風土が原風景になっている。砂漠、強い光、そしてどこにも属していないという感覚。この根なしの感覚が生涯にわたって詩に影を落とした。
1912年にパリへ出る。ソルボンヌで学びながら、当時の前衛芸術の中心に身を置いた。詩人アポリネール、画家のピカソやモディリアーニと交わっている。
1914年に第一次大戦が始まる。翌年イタリアが参戦すると志願して従軍した。配属されたのは北イタリアのカルソ高原で、この戦争で最も過酷な戦場の一つだった。岩だらけの土地で塹壕が掘れず、兵士は岩陰に伏せて砲撃をやり過ごすしかない。
その塹壕で詩を書いた。行軍の合間に、紙切れや葉書の裏に走り書きした断片である。それが詩集『埋もれた港』になった。1916年、戦地の近くでわずか八十部だけ印刷されている。
戦後はパリ、次いでローマで暮らした。1936年から六年間、ブラジルのサンパウロ大学で教えている。この滞在中に九歳の息子を病で失った。この喪失が後期の詩の中心になる。
帰国後はローマ大学で教えた。晩年には詩人としての地位が確立し、国際的にも高く評価される。1970年、八十一歳で死去した。
作風
詩が短い。数行しかないものが多く、時には数語で一篇が終わる。
「兵士たち」と題する詩は、秋の木の葉のように自分たちはここにある、という趣旨をわずか四行足らずで述べる。落ち葉と同じで、いつ散るか分からない。それだけを書いて終わる。
「朝」と題する詩はさらに短い。二行しかない。自分が無限の光に照らされている、という感覚だけが置かれる。前後の説明は何もない。
一語ごとに行を変え、空白を多く取る。この配置によって語が一つずつ孤立し、それぞれの重みが増す。ダンヌンツィオに代表される絢爛たるイタリア詩とは正反対の方向にあたる。
その背景に戦争がある。死と隣り合わせで暮らすとき、飾った言葉は意味を失う。必要なのは確かな語がひとつだけである。この状況がこの詩法を生んだ。自分は生にしがみついている一個の生き物だ、という一行を書き残している。
だが絶望を書いているのではない。むしろ生きていることへの驚きがある。砲撃の合間に朝の光を見る。仲間の死体のかたわらで、自分がまだ生きていることを感じる。この確認が詩を支えている。
後期には詩の形が変わり、より長く荘重な詩を書くようになった。息子の死と戦争を悼む『悲しみ』がその代表にあたる。ただし言葉の密度を重んじる姿勢は変わっていない。
作品
『埋もれた港(Il Porto Sepolto)』(1916年)
最初の詩集である。戦場で書かれた断片を集めたもので、八十部だけ印刷された。
『喜び(L'Allegria)』(1931年)
初期の詩をまとめた詩集である。「兵士たち」「朝」など代表的な短詩を含む。
『時の感覚(Sentimento del Tempo)』(1933年)
中期の詩集にあたる。詩形がより複雑になる。
『悲しみ(Il Dolore)』(1947年)
息子の死と戦争を悼む後期の詩集である。
日本語では詩の抄訳がある。
文学史における立ち位置と影響
20世紀イタリア詩を刷新した詩人である。
その転換は決定的だった。ダンヌンツィオ流の雄弁の時代を終わらせ、簡潔で密度の高い詩の時代を開いた。モンターレ、クァジーモドと並んで20世紀イタリア詩の三本の柱とされる。
の代表とされることが多い。ただしこの呼び名はもともと、意味が取れないという批判をこめて付けられたものであり、本人は必ずしも受け入れていない。
戦争詩の系譜でも重要である。第一次大戦は多くの詩人を死なせ、多くの戦争詩を生んだ。だがウンガレッティの詩は、戦争を告発するのでも英雄を称えるのでもない。極限の状況における生の一瞬を刻むことだけを目指している。この方向は独自だった。
ヨーロッパのモダニズム詩とも深く関わる。パリで前衛芸術の渦中にいた経験が、その詩法の基礎にある。フランス象徴主義、とくにマラルメの影響も指摘される。
日本での受容は限られてきたが、その短詩は俳句と比較して論じられることがある。切り詰めた言葉で一瞬を捉えるという方向において近い。ウンガレッティ自身、日本の詩に関心を持っていた。