アンドロマック

原題
Andromaque
作者
ジャン・ラシーヌ
成立
1667
フランス
時代
17世紀

概要

五幕の韻文悲劇である。上演は二時間ほど。舞台は一つの宮殿から動かず、劇中の時間も一日で収まる。

この作品を動かしているのは、一方通行の恋が四つ連なった構造である。

ギリシアの使者オレストは、王女エルミオーヌを愛している。エルミオーヌは婚約者である王ピリュスを愛している。ピリュスはその婚約者を顧みず、捕虜のアンドロマックに恋している。そしてアンドロマックは、死んだ夫ヘクトルだけを愛し続けている。

この鎖はどこにも閉じない。誰か一人の恋が叶えば、必ず別の誰かが捨てられる。四人とも相手を選べず、相手の心も変えられない。ここから嫉妬と絶望が生まれ、殺人、自害、発狂に至る。

素材はトロイア戦争の後日譚で、エウリピデスの悲劇などを下敷きにしている。だがラシーヌは原典を大きく作り変え、神々の意志や英雄の運命ではなく、人間の心理だけで劇が動くように組み替えた。 事件らしい事件は終盤まで起こらず、劇の大半は四人が互いの心を探り合う会話で進む。

1667年、ラシーヌ二十七歳のときの初演で、大成功を収めた。当時は老コルネイユが悲劇界の頂点にいた。コルネイユが意志と義務の葛藤を描いたのに対し、ラシーヌは意志で制御できない情念を描く。 この作品は、その交代が起きた地点にあたる。

文学史における評価と影響

ラシーヌの悲劇の型がここで確立した、とされる。

核心は情念の力である。四人は抗いがたい恋に囚われており、そのすべてが報われない。理性でも意志でも制御できない情念に支配される人間の悲劇、という主題は、後のフェードルでさらに深められる。

恋の連鎖という構図そのものが劇を生む点が、この作品の独自性にあたる。悪人は一人もいない。誰も陰謀を企てていない。それでも四人の位置関係だけで破滅が導かれる。人物の性格ではなく配置が悲劇を作る、という作り方は、後の劇作に繰り返し使われた。

三一致の法則を守った凝縮も特徴である。時間は一日、場所は一つの宮殿。外的な事件ではなく心理の緊張だけで五幕を持たせる。この密度がラシーヌの評価を決めた。

結末の扱いも示唆に富む。破滅を免れるのは、誰をも愛さず、死者への貞節だけを守り抜いたアンドロマックである。 情念に身を委ねた三人が滅び、情念を拒んだ一人が生き残る。

あらすじ

ギリシアの王ピリュスの宮廷。ここにトロイアの未亡人アンドロマックと、その幼い息子アステュアナクスが捕虜として囚われている。

ギリシアから使者オレストが来る。表向きの任務は、アンドロマックの息子——将来ギリシアへの復讐者になりうるトロイアの血筋——の引き渡しを要求することである。だがオレストの真の目的は、この宮廷にいる王女エルミオーヌに会うことだった。

王ピリュスはエルミオーヌの婚約者である。だが捕虜アンドロマックに恋してしまっている。ピリュスはアンドロマックに取引を持ちかける。 自分と結婚すれば息子の命を救い、守ってやろう。拒めば息子をギリシアに引き渡す。アンドロマックは苦悩する。死んだ夫への貞節を守るか。息子の命のために、夫の仇でもある男と結婚するか。

一方、婚約者に顧みられないエルミオーヌは嫉妬と屈辱に苦しむ。エルミオーヌを愛するオレストは、その隙につけ入ろうとする。

アンドロマックはついに決断を下す。ピリュスと結婚して息子の命を救い、儀式が済んだ直後に自ら命を絶って夫への貞節を守る。

ピリュスが結婚を公言したことで、事態は破局へ雪崩を打つ。捨てられたエルミオーヌは逆上し、自分を愛するオレストに命じる。結婚式の場でピリュスを殺せ。 オレストは、愛する女の歓心を買うためにこれに従う。

オレストの手勢によってピリュスは殺される。だがオレストがそれを報告すると、エルミオーヌは逆に激しくなじる。誰がお前にそんなことを命じた、と。 愛するピリュスを失ったエルミオーヌは、その亡骸のもとへ駆けつけ、その場で自害する。

エルミオーヌの死を知ったオレストは発狂する。愛する女のために罪を犯し、その女に拒まれ、そして失った。錯乱したオレストが幻覚に苛まれる場面で幕が下りる。生き残るのは、誰も愛さず、ただ貞節を守り抜いたアンドロマックだけである。

作者

登場する文学史